投稿者「george_sugimoto」のアーカイブ

「スピリチャル」から「クリスチャニティ」へ

福音宣教、ものすごく手ごたえを感じる。やはりリバイバルを通じて、「スピリチャル」から「クリスチャニティ」へと多くの人が回心していくのは、時間の問題だと思う。

炎の舌

伝道における熱量はとても大事。ペンテコステで下った聖霊がとった形も、「炎の舌」だったわけで、日本のリバイバルを志すならば「炎の舌」のように生きなければならないなと思う。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」
‭‭使徒言行録‬ ‭2:1-4‬ ‭新共同訳‬‬

「スピリチャルブーム」は、ヘレニズム化の一環であり、その後に必ずクリスチャニティへと統合されていく。

日本の場合、結局のところ近代化は上からの近代化だったので、「ヘレニズム化」からの「クリスチャニティ」という下からのプロセスを経ていない。今、「スピリチャル」が特に2000年代以降大いに流行しているのは、この「ヘレニズム化」にこそある。必ずこのヘレニズム化は、教義的な矛盾点に遭遇し、その後啓示宗教であるところの一神教へと統合されていくことになる。これは世界の歴史が示している確固たる真実だ。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
マタイによる福音書 7:13-14 新共同訳

「スピリチャル」から、本物の信仰である「クリスチャニティ」へ。

今、日本においてクリスチャニティの素晴らしさっていまいちほとんど理解されていないが、ここ数年の流れの中で、ほぼ確実にイケてる文化になるんだと思う。世界中で、そういう芽が確実に出つつある。文化が広がるかどうかは、イケているかどうかも、非常に大事。そういう賜物を持った人たちが、これからイエス様の御言葉を誰にでも分かりやすく伝えていけるように、そして心理的障壁を取り除いていくべく、彩っていくのだと思う。
いまはまだぴんと来ないと思うけれど、確実にこの感覚は2007年に占い師としてスタートした時にもあった感覚。あの当時、とにかく胡散臭いといわれ続けて12年したら、気が付いたら皆心理的障壁は取れてしまっている。占星術や神智学のコアとはつまりは汎神論に基づくマニ教なのだが、そのマニ教は、3世紀までは当時の世界宗教といえるくらいに大きく広がっていった宗教。しかし、その後、教理としての完成度が恐ろしく高い(ゆえに主によって啓示された宗教であることは明確である)キリスト教にとってかわられていく。どちらに真実があるかは、この人類の歴史を見ても明白にわかることだ。
今ニューエイジを信じている人も、ある意味ではちゃんと人類の歴史をカバーしているといえる。あくまでマニ教(ニューエイジ)は幼い信仰から完成された信仰へと向かう段階の「さなぎ」に過ぎない。
ここから多くの人が、スピリチャリティから、クリスチャニティに移行していくのだと思う。少なくともマニ教は、結果的に西洋社会がクリスチャニティへと移行していく際の必要悪(人間が考えられうる最善の方法)だったともいえる。つまり人間が考えた宗教(シンクレティズム宗教)か、主が啓示した啓示宗教か。この違いは非常に重要な違いだ。集団救済論は、啓示宗教である一神教でしか成しえない論理なのだ。
日本もこの世界的な歴史をしっかりとトレースしながら、内的召命によって、クリスチャンになっていく人がものすごく増えていくだろうと予測している。

リバイバルは近い

すごい。この秋にかなり革新的な聖書アプリがリリースするようだ。やはり確実にリバイバルの波が来ているね。しかも訳が、原文に忠実に訳すというポリシーの新改訳。さらに最新版の訳である、新改訳2017。すごいなこれは。
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リンク先で、実際の音声のサンプルが聞けるのだが、クオリティがすごすぎる。一流の俳優&女優さんが、声で演じられてる。すごい。。。
https://wemmick3.com/graceandmercy/

日本におけるリバイバル

日本におけるホーリネス運動の歴史を調べていたら、中田重治先生って、内村鑑三先生と同時代において行動を共にした日本のリバイバリストだったんだな。うーむ。時代は巡る。どの時代においても、リバイバルは、確実に聖霊の働きの内に起こることは共通する。
そして、今日本でもこのリバイバルが起こるための種をまく時期なんだと思う。時折しも、ニューエイジ系のとんでもない論客たち(多くの場合「自分を愛する」という名目で、心理学を援用したつもりになり、その実、周囲にただのモラルハザードを薦めている人たち)の霊的退廃の度合いがすごい時代なので、本当に世を改めていかなければならないと思う。
アメリカの70年代のニューエイジの影響、その後の2000年代に流行ったスピリチャルの影響を受けて、変な方向に進んで我を顧みない人たちは、本当に、聖書を通じて、基本的なヘブル的知識を、まずもって学んでほしいなと思う。こうした基礎的な知識がないとほぼ確実に95年のオウム事件同様に、自分自身が主体者となって、確実に身を亡ぼすことになると思う。自分の身のためにも、そして何より周りの人たちのためにも、本当に悔い改めてほしいと願う。そういう兆候が本当に最近より強く出つつあると思う。
リバイバルって広義の意味、比喩的な意味で、ペンテコステともいえるな。結局聖霊が注がれることで、リバイバルが起こるんだよな。
神の怒りによって言葉がバラバラにされたバベルの塔と、神の赦しによって言葉がひとつになったペンテコステは、聖書の中で対になるもので、バベル化が極まれば極まるほどに、その反対の極であるペンテコステ的統合、聖霊の内住が重要なものになっていくんだな。
イエスが預言した第二神殿の崩壊と、イエスキリストの復活(ペンテコステの奇跡による聖霊の注ぎと教会時代のスタート)もまた対になる現象だからね。

意識の振動数を高めるために

この12年、ずっと意識の振動数の研究をしてきたのだけれど、結局のところ福音によってしか深い部分にある、すべての波動を下げる元凶であるところの罪責感というものは取れない。そして福音を信じることによって原罪が贖われると、終わりではなくて(もちろんこれは決定的かつ非可逆な死と復活なのだが)その後も聖化が続いていく。この聖化は聖書の御言葉を学んで、祈りを深め、信仰心を強く養っていくことでじっくりと意識の振動数は高まっていく。そういう意味で聖書の御言葉とキリスト教神学は非常に確立された世界観だ。さすが長年の歴史の背景にあり、さらにウェーバーがプロ倫の中で論じたように、カルヴィニズムをはじめとした現代の資本主義経済に繋がるベースを作ってきた倫理であると言える。またこの聖化のプロセスを重視したのがウェスレーであり、その後のホーリネス運動となる。ここからペンテコステ派やカリスマ運動、第三の波なども誕生した。

意識の抽象度

思想的なバックグラウンドもだいぶまとまってきたので、そろそろ動く時が来ているな。物事を決断する時には、意識の抽象度は非常に大事。世の中を良くするため、主とともに参りましょう。

【ベツレヘムの星便り】359号   聖書における「祈り」とは何か



◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)


 2019/7/14                   359号


こんにちは、杉本譲治(旧:ユピテルジョージ)です。
今日は、聖書における「祈り」とは何かについて語りたいと思います。
私たちが、しばしば黙想しながら、
目に見えないものと向き合うことを、
「瞑想」と呼んだり、「祈り」と呼んだりします。
さて、ここで重要な問いなのですが、
そもそも「瞑想」と「祈り」は、何が違うのでしょうか?
なんとなく仏教では、「瞑想」を重んじ、
キリスト教では「祈り」を重んじる。
そのようなイメージを持つ方も多いでしょう。
この違いには、実は、それぞれの神学の構造の違いが存在しています。
私たち日本人の神の概念は、一般に「汎神論」と呼ばれるものになります。
汎神論とは、全てのものに神様が宿るという世界観です。
汎神論では、全てものに神様が宿るからこそ、自他の境界を超えて、
全てのものと一つになった時に、最も大きな「神」と出会うと考えるわけです。
そのために必要なプロセスを、「瞑想」と呼ぶのです。
仏教の場合はさらにここからそのすべての境界を超えた存在である
「神」すら存在しないという「空」という思想に行き着きます。
その意味では、仏教は本質的な意味では「無神論」あるいは、
もはや一般的に考えられるような神の存在をベースとした宗教ですらなく
「純粋な哲学」ともいえるものになるでしょう。
その一方キリスト教の世界では、旧約聖書の一番最初の書き出しは、
「初めに、神は天地を創造された。」創世記 1:1 新共同訳
という見解から、全ての歴史が始まります。
つまり、世界の初めには、時空を超えた、人格を持った一人の創造主が存在し、
その創造主が万物を創造したと考えるのです。
これが一神教と呼ばれる神学構造です。
そして、最初にこの明確な対象があるからこそ、瞑想ではなく、創造主という
対象を持った「祈り」を、重要なものとして考えるのです。
そして、さらに新約聖書において、この万物の創造主である父なる神は、私た
ちの罪を贖ってくださった子なる神であるイエスキリストと同じ神と考えます。
さらにイエス様が昇天した後に、ペンテコステの日に下った聖霊と呼ばれる神
とも同じ神とされます。
そして、キリスト教では、父と子と聖霊という3つの位格(パーソナリティ)
を持った、唯一の神という形で信じるのです。これをキリスト教神学では、三
位一体論と呼んでいます。
つまり、聖書における「祈り」とは、一神教の世界観に基づき、唯一の対象で
ある神に対して捧げるもの。
この神学の構造の違いが分かると、聖書への理解はさらに深まるようになり
ます。汎神論的な世界観を持つ日本人にとっては、この違いを理解するこ
とは、そもそも文化的な背景を規定している神学からとらえなおす必要がある
わけなのです。
異文化に触れて、その本質を理解するということは、こうした自分自身にとっ
ての常識を、一度自分の枠組みから外すということも、とても大事なものにな
るわけですね。
このことを理解したうえで、聖書の中でイエス様が唯一このように祈りなさい
とお伝えになったみ言葉をご紹介しますので、ぜひこの世界を創造した創造主
への「祈り」という視点で、味わってみてください。そうすると、より深くイ
エス様の御言葉が心に馴染んでくるでしょう。


▼マタイによる福音書 6:5-15 新共同訳


祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、
人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言って
おく。彼らは既に報いを受けている。
だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れた
ところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見てお
られるあなたの父が報いてくださる。
また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。
異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。 彼らのま
ねをしてはならない。
あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦し
になる。 しかし、もし人を赦さないなら、
あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。
(マタイによる福音書 6:5-15 新共同訳)


いかがでしたでしょうか。背景的な神学を理解すると、より聖句も味わいやす
いものになりますね。
それでは、今週もあなたにとって素敵な一週間になりますように。
父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。


メールマガジン【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便
り)
発行者:杉本譲治


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世の中のため、人のため。

はっきりいって自分のためだと神学大学・大学院に6年も通うのは、難しいけど、世の中のため、人のためとおもうと、6年くらいどうってことないと思うよな。視点って大事。
そもそも卒業しても、牧師は、普通に考えて、生活も大変だし、献身の心がないとできないわけで、そりゃそうだよなと思う。世の中のため、人のためという心を何より大事にしたい。
そもそもアウグスティヌス がマニ教から回心し、洗礼を受けたのは33歳の頃で、その後生涯をかけて、今のキリスト教組織神学の全てのベースとなる、偉大な「告白」、「三位一体」、「神の国」を上梓したわけだから、クリスチャンにとって人生遅すぎるということは何もないね。むしろマニ教をはじめとした、異教的なものを知り尽くし、幻滅した後にクリスチャンになったのであれだけの偉大な書籍を残すことができたわけで。
そもそも僕の与えられた賜物は、学問にこそあるのだから、召命された道をしっかりと歩んでいくことが何よりも大事だな。

聖書との出会い、ウェスレーとの出会い

聖書との出会いのおかげで、より深く主のエネルギーとつながることができるようになった。しかもこれが他者にも安定して伝えられる。これまでの神智学の枠組みとは異なり、知的エリート主義に陥らず、その人の能力や知識とは全く関係がなく、どんな人でも安定した霊的な恵みを受けられるような教理が、主の恵みによって準備されていた。しかもウェスレー神学によって、ルターやカルヴァンの信仰義認からさらに一歩踏み込んだ、聖化というプロセスの重視によって、個人個人のニーズに合わせたより深いサポートができるようになり、多くの教育的価値を生み出していけるようになる。素晴らしいことだ。

ジョンウェスレーの神学

ジョンウェスレーの神学(いわゆるメソジスト)をベースとしたウェスレリアン聖書注解(新旧両訳あわせて全7巻)が届いた。ウェスレーの神学はその後ホーリネス運動や、ペンテコステ派などにつながる、アルミニウス主義と聖化のプロセスを強調する神学で、僕自身の召命された背景にあるもののベースとなる神学なんだなと実感。今までの霊的な思索や研究の中で深めてきた内容とも、非常に調和するので、また活路が開かれてきた感じ。主の恵みだね。とても嬉しい。
ウェスレー神学の構造は、信仰義認による救いの教理をベースとしながらも、同時にその後の聖化に対する合理的な説明の基礎を提供するので、非常に心地いい。素晴らしい神学構造だと思う。
例えばこのウェスレー神学に基づいた大学として青学や関学があるように、たしかにメソジスト系が教育業界とも相性がいいのはなるほどと思う。これはこれまで活動してきたコーチングなどとも非常に相性がいい神学構造となるので、ようやく神学的にも活路が見出されてきた感じになるね。これなら牧師としてだけでなく、何より教育者としてしっかりとしたエートス(倫理)のもとで、人に献身することができる。このエートスの不在こそ、日本が異文化誤解して受け取ったニューエイジ 文化について感じていた違和感とある種の嫌悪感だった。これがようやく神学的に説明がつく。本当によかった。
まぁこれで「青学や関学が、背景的神学として基礎にしているウェスレーの神学をベースにした教育法に基づく献身ですよ」という説明ができるようになる。実際にそうだしね。実際、主は僕を牧師としてよりも教育者として召されたと考えた方が自然なんじゃないかなと思う。新たなコーリングが始まっているな。
特に僕自身、経営コンサルタントなどを通じて、経済的なアドバイスなどをするという、主から与えられてきた献身のための賜物があるので、経済活動とクリスチャニティの理論との調和はとても大事なテーマだった。ようやくその解が、メソジスト系の神学の中に見出されるようになってきた。ほっと一安心。
また、この神学のおかげで、今日本に跋扈しているカルト化したニューエイジの特に経済的な諸悪についても、しっかりと論駁できる神学的なベースができたともいえる。エコーチェンバー化するカルト的言説とその背景にある諸悪の霊と戦っていくためにも、エフェソ信徒への手紙の中の神の6つの武具のように、論駁するために必要な神学的ベースが必要だったからね。
正確には、牧師業と、教師業のふたつがあるということだね。あるいはコンサル業といってもいい。これで色々整理がつく。こうした業としての境界がしっかりあることで、例えるならば、「青学や関学は、クリスチャン系の大学だから、すべての救いを求める人を受け入れるために入学試験もありませんし、学費も献金性です、あるいは無償です」とはならないというように、よく理解していただきやすくなるからね。
これまで事業の中で築いてきた教育的資産という側面において、神学的にも、そのベースとなる経済的な価値を全否定する必要が無くなったし、と同時に、僕自身が「無償の愛」ということをずっとお伝えしてきたかったことが、伝道師という形でもしっかりと伝えることができるようになった。
これで、しっかりと僕自身のクレドに基づいて、お客様への誠実さをしっかりと事業の中でも、しっかりと説明ができるようになった。この活路は、活動を継続していく意味でも、本当に非常に重要なものだから本当によかった。
特に僕の築いてきた価値のベースは、教育的な資産にこそあるからね。
ウェスレーの神学のすごいところは、ルター以降の信仰義認の姿勢を固辞しながらも、それまでは戒律主義、自己義認の罪と批判されがちだった規律的生活(ゆえにメソジストといわれる)を、聖化という中に理論的に内包させることで、信仰義認と規律的生活(メソジスティックな姿勢)を両立させたことだね。ロマ書8章の中における、聖化というプロセスを協議の上でも重視視することで、一度はルターがカソリック批判の中で、技による救いとして切り捨てたものを、プロテスタント的神学構造の中で自己矛盾を起こさずに、再文脈・再結合させることができるようになったということなのか。特にカルヴァンの予定説に対抗して、アルミニウス主義(先行的恩寵説)を唱えたことも、こうした神学的な意味での、大きなブレイクスルーになったわけなのか。なるほど。

新生体験を伴う救済は一瞬。しかし、信仰は日夜育てていくことが大事。

新生体験を伴う救済は一瞬だが、信仰は農業と同じで、日々じっくり育てていかないと成長していかないね。結局福音をただ信じるだけでなく、成長したクリスチャンになるためには、日々の献身やディボーションがとても大事。御言葉をもとに、日々自分に落とし込んでいくことが大事。また特に偶像崇拝や汎神論、多神教などの誘惑が多い日本においては、弁証学的な学びも、とても大切。マモン崇拝も、ひとつの偶像崇拝だからね。

救済は、福音を信じることでもたらされるが、信仰は聖書の御言葉を学ぶことで深くなっていく。

聖書への理解が深まるとともに、信仰はそれに比例して深くなっていく。福音を知り、信じ、救われることは義認の第一歩であり、何にもおいて最も重要なこと。しかし、さらにそこから信仰を深めていくことで、栄化へと繋がっていく聖化が始まる(ロマ書8章)。
救われるためには詳細な知識がなくとも福音の三要素さえ知り、そして信じさえすればいいが(信仰義認)、あくまでそれは聖化の入り口であって、聖書の御言葉を学んでいくことで、信仰を深め、聖霊との繋がりを強くしていくことが大事。
「救済」は福音を信じることによってもたらされるが、「信仰」は聖書の御言葉を学ぶこと抜きに深まっていかない。
父と子と聖霊の御名においてお祈りします。アーメン。

日本独自の洗練された弁証学を

当然のように汎神論優位論が信じて疑われていない日本では、日本独自の洗練された弁証学が必要なのだと思う。尾山 令仁先生の創造主訳なんかもまさにこういう取り組みなんだと思う。
そもそもキリスト教信仰は、日本で一般的に受け入れられている宗教的相対主義では成り立ち得ず、宗教的排他主義もしくは宗教的包括主義をとらないと救いの教理として成立し得ない。これはそもそも弁証学は異教徒に対しては思惟への奉仕(ティリッヒ)でしかないから、あくまで宣教的な意味合いというよりも、むしろエクレシア内部、信じて救われた人が、より信仰を深めていく際に必要な護教的な意味合いで重要なものである。ゆえに弁証法は非常に重要な位置を占める。

ティリッヒの教会弁証学

そうか。ニューエイジ批判の抽象度を高めていくと、弁証学になるわけだな。そうすると、個別の批判にならず、むしろティリッヒがいうような「思惟への奉仕」になるわけだな。なるほど。
「弁証学は回心させようとはしない、ということが決定的な限界である」 (ibid., S.48)。つまり、弁証学は信仰の行為そのものを生み出すことはできず(vgl., ibid., S.50)、 ただ知の営みに専念するだけである。しかも、感情や意志への直接的な訴え掛けは福音伝道 (Evangelisation)の仕事であり、弁証学がそれを行うならば、越権行為であると看做される。」
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/57628/1/kondo8.pdf
弁証学について学び、弁証論の抽象度を引き上げていくことが大事だな。。。

福音宣教

地道にコツコツ、福音宣教。福音宣教にはやはり主が啓示した、型があり、型を守らなければ伝わらないことが体験上よくわかる。結局これが主によって啓示され、また聖霊の働きのよって洗練されてきたキリスト教神学ということになる。日本における一神教の福音宣教というのは非常に難儀だ。しかしこの型は主によって啓示されたものである以上、守るしかない。アクロバティックな方法もないし、その型について人がどうこうできるものでもない。主イエスキリストの御名においてお祈りします。アーメン。

イエスキリストは、世を裁くためではなく、世を救うために来た

カニエウエストにように、現代のロックともいえるヒップホップカルチャーで、聖書の詩篇が引用されるようになると、そりゃ若者の間での御言葉の捉え方も変わってくるよね。言うなればそれまでおじいちゃん世代の古い価値観だったものが、文化的なリバイバルを果たしていくわけで。
イエス様の御言葉は何より貧困や犯罪などに巻きこまれる社会的弱者のための御言葉でもあるからね。その意味でもヒップホップと聖書って意外にも親和性が非常に高い。ドラッグや犯罪の現代的な問題は決してニューエイジ 的思想では解決できないからね。むしろニューエイジ はドラッグを肯定さえしてたわけで。いまだに70年代のニューエイジ のヒッピー文化を引っ張っていて、そういう時代錯誤的価値観で薬物を肯定している人も割といる。ダサいなと思う。現実に薬物依存症で苦しんでいる人はそんなラブアンドピースな反権力といったお花畑のような世界にいるわけではない。もっとエグくてヤバイものだ。ましてゲットーやスラム街などの地域であれば、それに犯罪や、暴力、殺人などが常に隣り合わせにある。そういった混沌とした文化の渦中において叫ばれるヒップホップの言葉だからこそ、イエスキリストへの信仰もまたより深い意味合いを持つと思う。
聖書的に考えても、薬物を使って変性意識状態になり、自分が神だと誤認するというようなニューエイジ 文化って、ようはサタンが蛇に扮して「あなたも神のようになれる」と誘惑したやり方と同じだからね。ニューエイジ 的思想で、現代的なテーマである薬物問題が解決するはずがない。
「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭12:46-47‬ ‭新共同訳‬‬

若者の文化としてのリバイバル

少し前までは、アメリカでは、キリスト教は、日本のお寺みたいに、おじいちゃんおばあちゃんや、敬虔なクリスチャンが行くイメージだったのが、福音派やペンテコステ派のリバイバル勢力によって、若者の間でも次第にイケてる文化になりつつあるんだよね。こういう文化が日本に入ってくるときはものすごく早いと思う。舶来のものってものすごくありがたがる国民性なので。
まぁそもそもニューエイジ(かつてはオカルト、今はスピリチャル)や占いも、かつては「霊感」とか、おじいちゃんおばあちゃんが「鑑定する」ようなイメージで、決してイケてる文化ではなかったからね。まぁ、それがビートルズや、アンアン、ノンノなどでファッションとして受容され始めてから一気に広がった。そういうことが今後キリスト教文化においても起きてくるんだと思う。大事なことは、キリスト教は、ニューエイジ文化や占いを忌み嫌っているという海外の常識をよく知っておくことだと思う。少なくとも海外のニューエイジ文化や占いは、その大前提の上で成り立っている。つまり常にその論戦が張られた上での敢えてのカウンターカルチャーとしてのニューエイジ、占いを選んでいるという背景を知っておくことは大事だと思う。
スピリチャル=キモい、ダサいという感覚はある意味、日本でもすでにあるっちゃあるが(占い師だった時には、わりとこうしたイメージと戦ってきた)、海外では、アカデミックな側面からも、クリスチャニティという側面からも、もっとそういう風当たりは強い。
と同時に、アメリカ発祥のリバイバルからクリスチャニティ=クールという文脈が入ってきた時には、若者にとっては、まるでニューエイジャーって、70年代のヒッピーおじさんのような、時代に取り残された化石を見るような感覚になっていくんじゃなかろうかと思う。

アメリカにおけるリバイバル

おそらく今アメリカでリバイバルが起き始めているね。それが、ミュージシャンなどに広がって、言語や文化の壁を超えて、日本に入ってきたとき、おそらく日本でもリバイバルが起こり始めると思う。SNSの影響で一気に広がる時は、すごく早いんだろうね。そういう時のための種まきだね。今は。
逆にそうした時に、ニューエイジ思想を垂れ流していたら、気まずい思いをするんじゃないかな? 海外では常識であるキリスト教からニューエイジ文化への批判に無知すぎて、面食らうんじゃないだろうか。ダサいというだけじゃなく、禁忌として疎まれているという世界的な常識をその時初めて知るというのもどうかと思う。悔い改めることって大事だと思う。

ミュージシャンのカニエウエストが宗教団体を設立

ミュージシャンのカニエウエストが宗教団体を設立。
https://www.vogue.co.jp/celebrity/news/2019-7-08/kanye-west

いろんな形で、福音が伝えられるようになってきてるんだな。おそらくゴスペルとも親和性の高いペンテコステ派になるんだろうと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88
日本で宗教団体の設立っていうと、オウム真理教の影響ですぐにカルト?ってなるけど、普通に西洋社会で教会は、いまでも建てられているからね。この件ももちろん、日本においてとらえられるようなカルトという意味あいでとらわれず、あくまで西洋社会では、COOLでイケてるという文脈になる。トランプ大統領が誕生して、日本人の多くの識者があっけにとられたように、こうした流れはしっかりとチェックしていく必要があると思う。
ビートルズによって、ニューエイジ思想が日本に入ってきたように、おそらくこれから福音派やペンテコステ派に転向したアーティストのミュージシャンの影響で、本格的にキリスト教的世界観が日本に入ってくると思う。そうなるといろいろ文化受容も加速するんだろうね。ジャスティンビーバーもペンテコステ派に転向したし。
https://www.gqjapan.jp/life/business/20160409/what-would-cool-jesus-do/page/2
海外の宗教(キリスト教)×クールという価値観は、音楽というメディアに乗ると、日本でもかなり受け入れられやすくなるんだろうなと思う。
SNSの時代の次は、日本の文脈では全く理解できないが、おそらく西洋社会ではリアルなコミュニティであるエクレシア(教会)の時代がくるはずなんだよね。論理的に考えていくと、どう考えてもそうなると思う。
主を畏れ、愛し、隣人と、敵を愛する。これしかエコーチェンバー化するSNSへの、解決策はないんだよね。日本はこの問題をどう乗り越えていくか?ニューエイジの教理では決してこうした問題は解決できない。だからこそ聖書を読むことが大事。
そもそも2007年に占いを始めたときにはたくさんの偏見を浴びせられたからね。それが今や日本では占いはクールな文化になってしまった。
いまキリスト教に回心しても、あの当時のような偏見を持たれることが多いが、まぁ、すでにこうした偏見の目は慣れているといえば慣れている。わりと偏見にさらされることが多かったこれまでに歩んできた道のりを考えれば、今僕がビジョンとして描いているような主の栄光が讃えられる日も遠くないだろうし、今はそういう種まきの時期なんだと思う。
そういう意味でも、これから日本にもキリスト教のリバイバルは確実にやってくると思う。少なくともこのカニエウエストの文脈は、日本の宗教的な文脈をも変える力があると思う。

https://www36.atwiki.jp/gachmuch/pages/1015.html

確実に救われるためにという長年の問いの中で

12年ずっと個人セッションに誠実に携わってきて、具体的に、確実に人が「救われる」ためにどうすればいいか?ということを追求した結果、聖書の御言葉に行き着いた。どんな人でも必ず救われる信仰義認という素晴らしい真実、福音を知ってほしいなと思う。
ドイツの注解書、NTD新約聖書註解も届いた。いい説教ができるように勉強。
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トマスアクィナスとスコラ哲学

キリスト教倫理学という視点から、トマスアクィナスのすごさがようやく分かってきた。ようは組織神学における・教義学・倫理学・弁証学のうち、特に倫理学を中心としてそれまでの新プラトン主義(イデア論)でしか構成しえなかった要素、つまりまだ神学的論理性には不十分だった要素を、全てアリストテレスの哲学(倫理学)へと移行させたことで、スコラ哲学を作ったのか。つまりへブル主義(神中心主義)とヘレニズム主義(人間中心主義)という二つを融合させたということになるのか。確かにこれはすごいことだね。
確かに、トマスアクィナスの「神学大全」と、カール・バルトの「教会教義学」が並び称されるのは、その時代まで不可能と思われていたへブル主義(神の言葉)とヘレニズム主義(人の言葉)の双方のフレームのアウフヘーベンにこそあるんだな。なるほど。
先日のパスカルの「パンセ」というメッセージもそうだけれど、ピンポイントでキリスト教神学の重要な部分を教えてくださるので、本当に聖霊の働きというのはすごいなと思う。そのうちどこかの神学校や聖書学校に通うことになると思うけれど、すでに聖霊様という家庭教師がついているような感じ。

弁証学

汎神論、多神教的な日本においては、弁証学は非常に重要な要素になるなと強く思う。
これは江戸時代はもちろんのことながら、近代文明が西洋から入ってきた明治維新以降も、意図的に避けてきた論理だといえる。結局キリスト教の組織神学の1/3は、弁証学でできているからね。
こうした長い歴史の中での誠実な取り組みの中で培われてきた弁証学的なアプローチを知らずに、何となくイメージで独善的ととらえる人は、たぶん単純に聖書を読んだことがない、つまり単なる無知なんだと思う。日本のニューエイジ文化によくある汎神論・多神教優位論という無知ゆえの独善性ということに気づいていない。
こういう無知は本当に怖いもので、竹やり(日本的な汎神論優位論)で戦闘機(SNSによる国際化)と戦うつもりなんだろうか?とも思う。そもそもよくある話で、海外に行った日本人が、宗教の話になって全くついていけないと感じる理由も、こうした海外では長い文化と歴史の中で規定された弁証学の教育を一切受けたことがないから、一瞬で話についていけなくなることが理由。エフェソ信徒への手紙のなかで、「御言葉は剣」というのも、つまるところ弁証学。
SNSによって価値観がかつてないスピードで相対化され、国家という枠組みを超えた自分の神概念、信仰形態を深く考える機会が多い今、世界的な信仰形態のスタンダードであるヘブル主義的価値観を知ることは、本当に大事なことだ。そうでないと、今の時代は精神的な安全を保って生きることは難しいのではないだろうか?とも思う。
日本はキリスト教国家じゃないという人もいるが、そもそもキリスト教は、ユダヤ教徒は何の縁もゆかりもない、汎神論・多神教国家であったローマ世界が救いの教理として受け入れたところからはじまっている。つまり最初から誰も、主からの啓示なしに、一神教的で始まることはないということ。こうした文化的、歴史的な文脈が日本にはないため、いまだ単純な無知による汎神論優位主義が台頭しているといえる。結局のところ、この姿勢では、イエスキリストの十字架による原罪からの解放という福音理解には遠く及ばず、救われることもない。とても悲しいことだ。

脱ニューエイジ

脱ニューエイジ した人のための聖書を学ぶ居場所(エクレシア)を作ることが、まずは大事なんだろうなと思う。ニューエイジ 的な言説に、わりと疲れてる人多いんじゃないかと思う。熱心だった人ほど。いまニューエイジ 的な思想を持っても、人間らしい繋がりって生まれないからね。
日本の場合、戦後海外から取り入れていたヘブル主義的文脈がなくなって、ヘレニズム化していき、汎神論ゆえに偶像崇拝のひとつ、マモン崇拝に陥っていったんだと思う。そこへカウンターとして入ってきたはずのニューエイジ が、むしろ今はマモン崇拝に回帰して行っている。教理として汎神論を取る以上、全ての人が信じるものを一つにするために、偶像崇拝にならざるを得ない。そして、そういう意味で目に見えるものを最大の抽象度まで引き上げたお金というものを神にするという発想は、まぁ非常に合理的に説明がつくことかなと思う。非常に愚かだとも思うが。

組織神学の3つの分野 教義学、倫理学、弁証学。

キリスト教の組織神学の根幹は、救済論と教会形成論(教義学)、倫理学(御言葉の適応)、弁証学の3つの分野になるね。ニューエイジはこのあたりの論説が、もうボロボロとしかいいようがない。

ニューエイジ的終末論の不完全性

ニューエイジ的な終末論というのは、汎神論である以上、非常に不完全なものなんだよな。そもそも終末論は、一神教的な集合的救済論と必ずセットにならないと、単純なカルト的教義に陥る。まずそもそも人格を持った一人の創造主が前提となっていない段階で、信仰義認という枠組みが成り立ちえない。ゆえに、技による救いがベースとなる。個人の霊的な能力やグノーシスによる救いを前提とするため、エリート主義に陥り、集団救済論が成立しない。そして、汎神論であるゆえに、シンクレティズムに基づくため、皆が同じものを信じられるようになるための弁証学が発達しない。ゆえにそれぞれが信じるものがバラバラになり、そもそも同じ神を信じていないためニューエイジの中で分離が起こる。結局のところ、「自分自身」だけが信じられる存在=神であるというところに行きつく。これが行き着く先は、単なる孤立と空中分解である。つまりキリスト教におけるイエスキリストを一つの身体とした信徒のつながりという、教会形成論自体もニューエイジ的の救いの教理にはないわけだ。
2012年アセンション以降、パラレルワールドという言葉で、エコーチェンバー的カルト化が進んでいき、どんどん空中分解していっている。こうした分離が進んでいる姿に、どこにワンネスを感じられるのだろうと不思議に思う。
聖書を学んで、こうした矛盾した構造、不完全な教理から目醒める必要があるのではないかなと思う。聖書の世界でも2000年間の間、「すでに/いまだ」の教理的構造の中で、どの時代にも常に終末論が機能してきたことを知れば、もうちょっと落ち着いて、今の現実をまなざすことができるんじゃないだろうかと思う。この2000年間、どの時代だって「すでに/いまだ」であり続けてきたわけだ。そういう視点を聖書の世界に誠実に学ぶべきなのではないかなと思う。
日本にはこういう聖書的な集合救済論の視点が文化的になかったからこそ、アメリカのカウンターカルチャーとしてのニューエイジ文化を誤解して受け取った。そして、ノストラダムスの大予言という終末論に基づき、安易に汎神論&技による救いという霊的に無防備な状態のまま突き進み、ニューエイジ的言説を振り回して、オウム事件のような悲惨な事件を生み出す社会になってしまったのではないかと思う。

宗教と哲学

海外で「哲学と宗教」という場合、これはあくまでヘレニズム主義(ギリシャ主義)とヘブル主義、人間中心主義と(一神教的)神中心主義という両極の視点を意味する。日本の場合、ヘレニズム主義(ギリシャ主義)であるところの哲学は明治維新以降の近代化の中で積極的に取り入れたが、べブル主義という宗教的スタンダードは取り入れることに現時点で400年もの間ずっと失敗し、安易な汎神論/多神教優位論に陥り続けているといえる。今もなおトクガワナイズされている状態。むしろヘブル主義については、食わず嫌いで、忌み嫌ってさえいる。例えるならば、宮崎アニメ万歳と言ってそのまま思考停止してしまっている状態。無論、宮崎アニメが世界に誇る素晴らしい文化であることはいうまでもないことだが、そのことと自分が世界が宗教と呼ぶときの基本的な物差しであるヘブル的な世界観を知らないこととは慎重に分けるべきテーマである。
哲学には心を開くが、宗教は蚊帳の外にある。これらが日本人特有の宗教嫌いだといえる。
これまではそれでもよかったのだろうと思う。しかし、インターネットを通じて国と国の障壁がなくなり、個々人の心の中で自分の文化を相対化しなければならなくなった今、哲学と宗教という問題に差し掛かった時、ここが非常に重要な盲点になっている。ヘブル主義を知らずに生きるということは、世界のスタンダードの物差しに半分を知らずに生きるということ。例えるならば片目をつむってスポーツをしているような状態だ。
それ故に、割と世界では軽蔑の眼差しに近いものを向けられることの多いニューエイジ 思想を、ヘブル主義を知らないことで、そうとも知らず舶来品としてありがたがるという滑稽な傾向にある。
SNSによって参入障壁が格段に低くなり、個人でビジネスを始める人も増えてきているが、商売の基本となるヘブル主義(ユダヤ的価値観)への無知ゆえに、スタートした最初からすでに失敗したまま走り続けてしまう人も多い。ヘブル主義(ユダヤ的価値観)を知らずに個人事業をするということはすでにその時点で失敗しており、トクガワナイズされた状態で、黒船と戦おうとしている状態だと気づくべきではないかと思う。ましてニューエイジ 的文脈から、何も知らずに突っ走ることは自殺行為でしかない。
西洋占星術も勘違いしている人が多いが、海外ではあくまでわりと社会的には尊敬どころか、軽蔑されている対象であるという常識を知らないのだろうか? もしこうしたヘブル主義的視点があれば、オウム事件のような日本のニューエイジ 特有の問題は防げたはずだ。
少なくとも海外のニューエイジャーはそうした社会からの軽蔑の視点を意識した上で、選択的にその文脈に抗って強く生きている。ゆえに正統性を保とうと理論化、アカデミック化していこうとする。こうしたダイナミズムが「哲学と宗教」といったときに前提となるフレームだし、ヘレニズムの時代やルネッサンスの時代といった西洋文明の礎となった文化創造の軸になっている。海外で哲学と宗教という時、哲学とはすなわちソクラテスであり、宗教とはすなわちアブラハムである。ソクラテスから生じた哲学は知っていても、アブラハムから生じた宗教についてあまりに無知すぎる。しかしこうしたことは今後距離的文化的障壁が少なくなっていくこれからの時代は、非常に重要な視点になっていくと思う。ニューエイジ 思想は決して世界のスタンダードではないことを、まずは知ることが大事。

祈り

ようやく今後の大局的なビジョンが見えてきた。日本において主の偉大性と栄光を讃えられるエクレシア(教会)を形成し、情熱的な説教ができるような牧師になることだね。
福音の息吹に触れて、生き方が大きく変わる説教を届けていきたい。
ある意味新しいジャンルを創るということなんだと思う。
かつて見たことのないような主の偉大性を讃える情熱的な説教。
10代、20代の日本を背負っていく若者の心の琴線に触れるような説教。
人の心を動かす説教。ここに尽きると思う。
聖書の御言葉は今も生きている。
福音は今も生きている。
イエスキリストは今も生きている。
主よ、あなたを畏れ、あなたを愛し、
あなたに全てを捧げることを心から強く誓い、
あなたの従順な僕である私を、
日本の未来のために、これからの世界のために、
あなたの惜しみない愛を必要としている人々のために、
そして何よりあなたの御心が地において行われるために、
どうか用いてください。
父と子と聖霊の御名においてお祈りします。アーメン。

マンデラエフェクトの言説が異端的教義に結びつかないために

マンデラエフェクトは、イエス様の再臨といってしまうと、異端的教義(カルト)になってしまうので、なるべく控えたい。決して僕は、異端的な展開を展開したいわけではないし、ただただ主の僕として仕え、主の威光を褒めたたいだけ。しかし、明らかにイエス様が復活後、父なる神の右に座し、今も生きておられることの徴であることには違いがない。いわゆるシャカイナグローリーですね。
まぁそもそも前のタイムラインだと、「福音派」と呼ばれる勢力がここまで大きくなっているのは知らなかった。ドリーンバーチューをはじめとしたニューエイジの旗手たちが転向していっているのも、この福音派。これも自分にとっては完全にマンデラエフェクトなんだよな。「携挙」や「空中再臨」という言葉自体、そもそもクリスチャンの友人に聞いても、誰一人として知らなかった。ほぼ確実にこれもマンデラエフェクトなんだと思う。ただ、まぁ、あまり経験上マンデラエフェクトについて、騒いでも仕方がなくて、シンプルにシャカイナグローリーということで受け止めて、グノーシス主義的な知ではなく、福音に基づく愛と信仰で、福音宣教という形でイエス様がお伝えになったフォーマットに従順に、僕として仕えていくことが大事なんだという結論に至った。
「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。」
コリントの信徒への手紙二 12:1-7 新共同訳

聖霊のお導きのもと

メルマガの言葉や聖書箇所は、わりと自分で考えているわけではなく、聖霊が直接指示を与えてくださって、言葉を降ろしながら書いている。このあたりは、ペンテコステ派っぽいともいえるね。内村鑑三の無教会主義、プロテスタンティズムの福音信仰、その中でも聖霊の働きを強調するペンテコステ派、このあたりが僕のクリスチャンとしての個性になるのだと思う。

【ベツレヘムの星便り】359号  大自然に委ねるように、主の御心に委ねること



◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)


 2019/7/7                   359号


こんにちは、杉本譲治(旧:ユピテルジョージ)です。
今日のメッセージは、「大自然に委ねるように、主の御心に委ねること」です。
「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のこと
で何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。 命は食べ物より
も大切であり、体は衣服よりも大切だ。 烏のことを考えてみなさい。種も蒔
かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。
あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。
あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ば
すことができようか。 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの
事まで思い悩むのか。 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働き
もせず紡ぎもしない。
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着
飾ってはいなかった。 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、
神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことであ
る。」
ルカによる福音書 12:22-28 新共同訳
これは汎神論的な日本人の感覚からすると、すごくなじみやすい聖句かもしれ
ませんね。大自然の中でゆったりと、のんびりと過ごすと、誰しも心が晴れや
かになり、小さなことで悩んでいた自分のこだわりがとれて、気持ちのゆとり
ができるものです。
しかしここで重要なこと。聖書の世界でとてもユニークなのは、日々の喧噪を
離れ、実際にこうした大自然の中に「避難」しなくとも、聖書を開けばいつで
もこうした日本人が自然の中で感じる「大いなる存在」を感じられるようにな
るということ。そしてこの大いなる存在のメッセージが、書かれた御言葉とし
て啓示されたものが聖書なのです。
つまり、聖書における創造主とは、私たち日本人が自然に対して感じる畏怖の
気持ちを持つ「大いなる存在」と同じもの。自然の中で感じるあのゆったりと
した感覚こそ、この聖句が示す創造主の愛なのです。
また、こうした自然を含めた万物の創造主であり、また、その主の愛が人格を
もって現れた存在が、そう、イエスキリストなのです。
この天然(自然)と創造主という論点は、無教会主義というコンセプトを立ち
上げ、今の僕自身の宣教活動の一つのモデルともなっている、明治のクリスチ
ャン「内村鑑三」の視点でもあります。彼は、日本にはいわゆる海外では一般
的な「建物の教会」というものはなかなかなじみにくく、むしろ日本人の感覚
では、天然の中での祈りこそ、最も日本人らしいこの世界への創造主への畏怖
の心を伴う教会の形であると考えました。
イエスキリストを自分の救い主として受け入れ、救われるということは、日本
人の汎神論的な感覚で言うと、常にこのような大自然の中にいるような心理状
態になることといえるでしょう。
イエスキリストを自分の個人的な救い主として受け入れるためにも、まずは、
私たちにとって親しみやすい部分から、聖書を読んでいくということもとても
大切。こうした視点を少しずつご紹介しながら、汎神論的な世界から、どのよ
うに一神教的な世界へと視点をシフトし、聖書の世界に親しんでいけるかにつ
いてこれからも分かりやすく解説していきたいと思います。
今週もあなたにとって素敵な一週間になりますように。父と子と聖霊の御名に
おいてお祈りいたします。アーメン。


メールマガジン【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便
り)
発行者:杉本譲治


▽今週もあなたにとって素敵な1週間になりますように。
父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。
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人間関係に関するイエス様の御言葉

そもそも和を以て貴しとなすという国民性の上に、さらに多神教、汎神論的な信仰形態を持つ日本において、真逆の一神教的なクリスチャンとしての信仰告白をすること自体、多神教ゆえに攻撃されることはなくとも、わりと誤解されたり、距離を置かれて避けられたりする。そもそもクリスチャン人口はわずか1パーセントしかいないからね。あと日本の仏教や神道自体がそもそも国家神道の終焉や400年にわたる檀家制度という仕組みによって形骸化してしまっている上に、オウム事件などもあったので、そもそも「宗教」というものそれ自体へのフォビア、アレルギーがある。
でもこうしたことはすでにイエス様もよく分かっておられて、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」とマタイの福音書の中で告げていらっしゃる。キリスト教を信じるということは、もともと本来決して人間関係の和をもたらすことが目的なのではなく、原罪からの解放、魂の救い(永遠の生命を得ること)にこそ重要な目的があるので、こうした側面も日本人の国民性から見ると、違和感を感じる部分なんだろうなと思う。
まぁでも割と、柔軟な国民性でもあるので、今の国際化する時代においては、明治時代の福沢諭吉のように柔軟に近代思想のコアを導入していける雰囲気もある気がする。実際に今人に福音をお伝えしていく中で、そういう手ごたえはすごくある。なぜなら、そもそも個人個人が、ニューエイジ的文脈に依存するくらい、魂の救いを求めている時代だからね。救済へのニーズがあれば、それは広がっていくものだと思う。
あと、そもそもニューエイジ的文脈にいる人って、すでに人間関係の和の中にいない人が多いから(波動で好き嫌いを選ぶ、自分と価値観の合う人とだけ付き合う傾向、価値観が会わない人とは決して肘を付け合わせてお互いの違いを超えて語るのではなく、人間関係の距離を置いてスルーする傾向)、いまさらかつての日本人のような「和を以て貴しとなす」という発想の中にいる人も少なくなっていると思う。ニューエイジ的信仰を持っている方が、よっぽど分離を経験するからね。
僕の上の世代のニューエイジャーは特に、好き嫌いがはっきりしていて、互いのテリトリーを守るために喧々諤々としていた印象。わりと僕の世代で横のつながりが出てきたようにも思う。でもそうはいっても、やはり個性が強い人々なので、結果的にほどよく距離ができていったように思う。決してニューエイジ自体が語るような、ワンネスの中にはない。
そのあたりのことは今後皆色々感じる部分はあるんじゃないだろうかなと思う。そもそもニューエイジャーって、わりと社会に適応できない個人主義的な人、自分の価値観が割とはっきりとあって周囲となじめない人がすごく多いし、彼らがいう「ワンネス」の人間関係を体現している人ってあまり実際のところ見たことがない。ワンネスはあくまで未達の願望であって、決して彼らが体験している人間関係の現実ではない。
そういう意味では、イエス様が「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 」と語られた御言葉のほうが、むしろよりリアルな感じがあると思う。そういう意味でも、ちゃんと前もって体験するリアリティを伝えてくださっているわけで、誠実な教えだなと思う。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。 こうして、自分の家族の者が敵となる。 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭10:34-39‬ ‭新共同訳‬‬

キリスト教弁証学とパスカルのパンセ

キリスト教は、他の宗教形態と異なり、集団的救済論という特殊な性質を持つ一神教という構造故に、護教的な弁証学が常に神学の重要な部分であり続けた。すでにそれはパウロ書簡におけるグノーシス主義やマニ教への注意喚起などにも見られる。今日主に祈り求めていたら、聖霊を通じて「パンセ」というメッセージがきて調べたら、パスカルが書いた弁証学的な書物だった。弁証学も僕にとって非常に重要な研究テーマになっていくのだと思う。特に安易で盲目的な多神教優位論、汎神論が台頭する日本において、この誠実な弁証学的なプロセスは非常に重要なものになると思う。いうなれば2000年前のヘレニズムの時代に、ローマ帝国を始めとして様々な国が多神教、汎神論から、一神教へと生まれ変わったのも、こうした地道な弁証学の歩みがあったからこそ。日本はこうした地道な弁証学を積み上げてこなかったからこそ、いまだに普遍的な救済論としての救いの教理を得られていない。本当に地道な活動が大事になるんだと思う。父と子と聖霊の御名においてお祈りします。アーメン。
https://kotobank.jp/word/パンセ-118179

経済的に成功すれば一人前?

経済的に成功してようやく一人前で、そこからやっと社会貢献ができるようになるという考え方は、すでにもうわりと古い考え方になっているんだと思う。経済的成功を基準としたアントレプレナーシップも、そういう意味でだんだん下火になってきているのだと思う。むしろ若い人の層では、社会的貢献のためのアントレプレナーシップというところがトレンドなんだと思う。もしくはそもそも好きなことがある程度できていれば、起業する必要性もないともいえる。まぁ実際今は就職内定率も高いし、人手不足の売り手市場だから、リスクをとって起業するメリットは実際あまりないからね。まぁそういう意味で、トレンドというのはあるよなと思う。
https://news.tv-asahi.co.jp/news_economy/articles/000158856.html?fbclid=IwAR1RuCepQyZQqdsz7h5nauBr-F-5S49RrgtL7TfjWBAXM7gGrqEoxRISmR8
また、特に最近の若い層は、堅実なので、経済的なものについて変な夢を見ていないし、欲もない。わりと僕の世代(35歳)が一回り上の世代(今の50代)がスーパーカーに強い憧れを持っているのをいまいち理解しがたいのと似ていると思う。僕らの世代が、例えばハイファッションにお金をかけることがステータスだったことが、若い世代(10代20代)から見るとだんだん理解不能、そこまで背伸びする必要がある?と感じるのと同じような感じ。昔みたいに身の丈に合わないような高いバッグも買わないみたいだし、そこまでそういった持ち物がステータスシンボルにもならなくなっているみたいだしね。そういう背伸びも必要がなくなっている。むしろ割と現実的に地に足をつけているんだと思う。
いまはわりと現実的に考えた時に、地位財によっては幸せにならないことは結構すでに理解していて、人生の中で、非地位財を求めていくことが主流になっていく時代がきているのだと思う。
そういう意味でクリスチャニティ の精神に基づいて社会や隣人に献身しあえる兄弟姉妹が集まるエクレシアの形成は非常に重要だなと思う。
まぁそもそも無償の愛に生きれば、いつだって社会貢献はできるしね。街の教会もおにぎり握ってホームレスの皆さんに配っている。アイデア次第でほとんどお金をかけなくても無償の愛はいくらでも伝えられるからね。しかもそうやって生きてたら、結局そのうち経済的にも豊かにもなっていくのは当然の話。与えたものが、受け取るものだからね。

無償の愛

クリスチャンになってよかったのは、遺憾無く無償で人を助けられること。クリスチャンとしての信仰告白をしていないと、そもそも無償の愛って、裏側に何か別の意図があると思われやすい。今は主の栄光を讃えるためですと、自分の信仰に基づく献身であることを表明できるので、そうした誤解が限りなく少なくなる。そしてそもそキリスト教というのはイエス様への完全なる感情依存が背景にあるので、そもそも一般的なカウンセリングのような共依存の関係にならない。もしなったとしたら、それは自分自身が偶像崇拝の対象になっているということで、これは全くクリスチャン的ではない。こうしたクリスチャンとしてのフレームは人助けをする上で、さまざまな障壁を一度全部退けてくれる。だいたい無償の愛というと訝しがられるし、こうしたテーマでこの12年たくさん苦労してきたけど、ようやくただ単純に無償の愛で生きているということの自然体の思いを理解されやすくなってきたなと思う。多くの方々がイエス様の愛によって救われてほしいと心から強く願っています。主イエスキリストへの感謝と賛美とともに。父と子と聖霊の御名においてお祈りします。アーメン。

地道に福音を通じて

結局2017年3月27日に巨大隕石が落ちて、この世界がすでに死後の世界になっているといくらグノーシス主義的なベースで知識でもって伝えても、まともに受け取ってもらえないので、まぁ結局のところ地道に福音における無償の愛を伝えていくことが聖書的なアプローチなのだと思う。アウグスティヌス もおそらく同様の経験をしたんだろうなと。死後の世界に復活したことに気づき、そのことをいくら伝えても伝わらない。ゆえに告白の中には時間論がしっかりと入っている。時間を超越した創造主は、時間をも創造したという理論。まさにマンデラエフェクトを経験していないと書けない理論だし、そもそも福音を信じていれば、確かにこの世界が死後の世界だということも受け入れられるのだから、順番ってのがあるんだな。2年半、この世界が死後の世界だということを伝えてきて、結局クリスチャンしか伝わらないので、しみじみ基本の福音を伝えていくという地道なプロセスが大事なんだなと思う。できるだけ多くの人に福音を知っていただきたいなと思う。
「「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。 そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。 人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭24:29-31‬ ‭新共同訳‬‬
しかしつくづくアウグスティヌス の三代著作「告白」「神の国」「三位一体」はすごいなと思う。パウロに次いでアウグスティヌス が今のキリスト教教理のほとんど全てと言ってもいいくらい重要な概念を考え出しているんだよね。特に当時流行っていたマニ教やグノーシス主義への鉄壁の守り(異端教義からの護教は、初代教会、パウロ書簡の時代から、一神教であるキリスト教において常に重要な神学となる)は、非常に鮮やか。まさに聖霊の導きによって書かれている。

ニューエイジ的文脈における、自分軸/他人軸という欺瞞

日本人のニューエイジ 文化の中では、自分軸/他人軸というフレームで日常的な諸問題の原因を捉える人がよくいるが、そもそもこの背景には、汎神論が存在している。おそらく自分軸が大事という論理は、ようは汎神論的に自分を神に見立てて、世の価値観(他人軸)ではなく、神(自分軸)の価値観で生きるべきだということを言いたいのだろうと思う。つまり、キリスト教世界で言うところの、アウグスティヌス が論じた神の国/地上の国の論理のように、地上の国の論理ではなく、神の国の論理で生きることが大事ということを、言いたいのだと思う。しかし、そもそもこうした神学的構造を理解せずに、本来一神教的な世界観を基盤にして生まれたニューエイジ 的文脈を、日本的汎神論を介して翻訳して伝えようとしているので、こうした文脈は、大きな文化的な誤解として受け取られてしまっている。
しかし残念なことに汎神論はそもそも神=自分(罪深き人間)であり、またそもそも汎神論が、集合的救済論として非常に不完全な要素を持っている(技による救い/グノーシス主義によらなければならない)ので、結果的にどれだけアウグスティヌス が論説し、西洋文明の基礎となった神の国の論理(イエスキリストによって創造主と自分の間にとりなされた軸)で生きようとしても、そもそも汎神論には創造主という絶対的な視点がないため、集合的救済論が成り立ち得ないという根本的な欠点があることに気づいている人は少ない。そして、自分軸/他人軸の論説は、そのままうのみにしてしまうと、結果的に自分が神だと思いあがった傲慢な人間ができあがる。
これはヘブル的な価値観を知らずに、ニューエイジ を受け入れてしまった残念な傾向であると言える。つまり他人軸であろうが、自分軸であろうが、そもそもヘブル的な「神の軸」を持たない限り、汎神論的世界観では罪深き人間の揺れ動く感情の上に成り立つ軸であって、決してこれは軸と言えるような不変のものではなく、いずれにせよ非常に脆弱な土台の上に成り立つ論理であるということ。これが他人軸であろうが、自分軸であろうが、そもそも日本人が精神的な自立を遂げられない大きな原因になっているのではないかと思う。
そもそも主語に自分か他人しかないという構造的な欠陥が、汎神論には常につきまとう。ゆえに、外側で起きることは、全て内側で起きているというグノーシス主義に陥っていくのだと思う。400年クリスチャニティ を拒み続けた上で、この20-30年で一気に国際化の波に飲まれている今、その世界観の抽象性をバージョンアップすることを怠ってきた代償は非常に大きいと思う。
サッカーや野球が、日本の枠組みを出て、海外で選手が活躍する中で、世界的な基準に触れ、スポーツ文化として成熟していったように、日本の精神性も、ちゃんと聖書を通じて、世界の常識であるヘブル主義を学ぶ必要があると思う。世界のリアリティを知らない安易な多神教優位論(しかもこれはすでに集団的救済理論として構造上非常に大きな欠陥をはらんでいる)をまずは脱皮しないといけないのではないかと思う。オウム事件なんかは、まさにその状況をシンボリックに象徴する事件だったと思う。
最近のニューエイジ の傾向は、こうしたヘブル主義的な価値観を持っていないがゆえに、本来は親世代のマモン崇拝に嫌気がさして、ニューエイジ の文脈に入ったのに、結果的に戦後日本が中軸としてきたマモン主義(経済中心主義)を無自覚に回帰しつつあるという不思議というか、非常に愚かな現象が起きている。結局のところ日本人の精神構造の中に戦後のマモン崇拝から抜け出せないまま、スピリチャリティも商業主義の中で偶像崇拝をしているに過ぎないのだと思う。決してこうした精神構造の中で、気持ちが休まる日は永遠に来ないだろうと思う。主を畏れ、悔い改めることは非常に大事。そうでなければマモン主義に基づく日本人特有のニューエイジ に巻き込まれて、自らの身を滅ぼしてしまうだろうと思う。

リバイバル

日本におけるリバイバルはこれから確実に来ると思う。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/リバイバル_(キリスト教)
日本において明治期および終戦後に大都市を中心にキリスト教徒の数が増加した現象をリバイバルと位置づける。日本のリバイバルとしては戦前のホーリネス・リバイバル(1919年と1930-1933年の2回)が有名である。

自己実現神話の中で神として据えられてきたセルフ

承認欲求というワードがある段階でもはや機能しなくなるように、自己実現欲求というのも、そのうち機能しなくなっていく時代が来るんだろうなと思う。そもそも自己実現神話の中にずっとあったけれど、セルフという神話はこの世の事象を全て語り終えるには少し無理がある部分がある。ゆえに自己超越というピラミッドをマズローはその上に置いたが、そもそも自己超越とは、例えるならばこの動物はキリンではないと言っているだけで、どんな動物なのかを何も表現していない。これってつまりはシャカイナグローリーを伴った神の栄光を讃えたいという欲求なんだと思う。聖書はいうなれば、自己実現欲求を超えた、シャカイナグローリーを伴う主の賛美の欲求を規定する重要な書物になると思う。というか主の賛美を求めていけば、自ずと自己実現欲求は満たされる。目的がすごく大事。
SNSやブログを中心として広がる自分を愛するという論説に若干食傷気味だし、正直もうお腹いっぱい。そんなに自分のことしか興味持てないのかなと思う。もっと社会全体に責任を持つ思考になれないものかなと苦言を呈したくなる。
例えるならば、いいねは自己につけるものではなく、三位一体という形で明確な人格を持った万物の創造主につけるものだと思う。

イエス様を救い主として受け入れて

パラレルワールド化やマンデラエフェクトも、ひとつのシャカイナグローリー(神の臨在が人間に知覚できる現象となって現れたもの)の一種で、つまるところそれ自体は目的ではなく、主の栄光を称えていくことが一番大事。
あと結局のところイエスキリストを救い主として受け入れることが一番の波動を上げる方法。ただ波動を上げるだけでなく、憐れみの心を持って、どんな波動にも柔軟に適応でき、全ての世界を行き来できるようになる。ただただ高い波動だけを目指し、低い波動を断捨離等を称して切り捨てるのは、心が狭い&考え方が幼い証拠。自分の幸せのことしか考えていないし、主はそうした人を決して好まないであろうと思うし、結果的にそうした人々は今は良くてもそのうち滅びるだろう。大事なのは社会全体に対する責任を持つこと。憐れみと自己犠牲。こうした心を持っていれば、波動が高かろうが低かろうが、主が大いにお用いになってくださる。父と子と聖霊の御名においてお祈りします。アーメン。

偽預言者

今の日本においてはクリスチャニティや福音は、その偉大さに比べて、まだまだろうそく火のような認知度だが、万軍の主が付いている。これからがいよいよ大事なフェーズだ。
今月から、マジで本気で頑張っていく。全生命をかける。
「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」
‭‭エフェソの信徒への手紙‬ ‭6:10-20‬ ‭新共同訳‬‬
「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、 しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。 彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。 神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。 また、神は昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです。 また、神はソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました。 しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。 なぜなら、この正しい人は、彼らの中で生活していたとき、毎日よこしまな行為を見聞きして正しい心を痛めていたからです。 主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。 特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。 天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。 この者たちは、捕らえられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。 不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。 その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています。 彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、 それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。 この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。 彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。 その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。 わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。 義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。 ことわざに、/「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」また、/「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです。」
‭‭ペトロの手紙二‬ ‭2:1-22‬ ‭新共同訳‬‬
「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:15-20‬ ‭新共同訳‬‬
「偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭24:11-14‬ ‭新共同訳‬‬
「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。 イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。 イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。 子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。 偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。 わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。」
‭‭ヨハネの手紙一‬ ‭4:1-6‬ ‭新共同訳‬‬
「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。 だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。 だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」
‭‭コリントの信徒への手紙二‬ ‭11:13-15‬ ‭新共同訳‬‬
https://www.bible.com/1819/2co.11.13-15.新共同訳