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ニューエイジャーからクリスチャンになる人は増えていくだろう

ニューエイジャー の僕が、主の御手によって、一転してクリスチャンになったように、全国でこうした人たちがおそらく今後たくさん出てくると思う。そういう人たちはホーリネスやペンテコステ系の神学を学ぶと、比較的スムーズに聖書や一神教の世界を理解できるようになるし、コリント書やエフェソ書などに基づき、霊的な意味でのエクレシア形成論も理解できるので、各地に自然発生的なエクレシアが建てられていくと思う。そういう自然発生的に立ち上がって来るエクレシアをベースに、イエス様を頭とした霊的なリーダーの育成ためのコーチングなどに従事し、全国行脚する日が必ずくると思う。そういった具体的なビジョンこそ、リバイバルに必要なのだと思う。

ニューエイジ稼業は明確な害悪である

日本の文化って八百万の神々の文化(つまりアニミズム/多神教)なので、サタンや悪霊が紛れていても見極めがつかないし、そもそも平気で「サタンや悪霊だって神だ」と開き直る人さえいる。そういう人に限って、生活のベースをニューエイジ稼業においている。これが日本の霊的な現状だ。本当にこうした態度は、霊的に無防備な多くの人たちにとって害悪になるので、悔い改めてほしいなと思う。

ニューエイジ稼業は、サタンの魔の手の中にある

僕自身、生活のために占いをしたことは無い。生活のためなら、そもそもコツコツ積み上げてきた学歴を全部捨ててまで、やることじゃないし、馬鹿にされたり、偏見や迫害に耐えてすることでもなかった。めちゃくちゃ死ぬほど苦労したからね。人助けっていうのは志なくしてできないし、まして、自分の生活のためだったら絶対にできないこと。それなら普通に真面目に会社に勤めたほうが100億倍ましな人生になる。
気軽にできるサイドビジネスとして起業して、自分の生活のためにニューエイジ稼業をしている人たちは、はたと自分の犯してきた罪に気づいたときに、その罪の重さに耐えきれるのだろうかと心配になる。ニューエイジ稼業は、サタンの魔の手の中にあることに、早く気付いてほしいなと思う。

ニューエイジャーからクリスチャンへ

先日のいささんの集いに参加したところ、ニューエイジャーからクリスチャンに転向した方が結構いらっしゃった。時期もだいたい同じこの数年の間。皆それぞれに預言の賜物を持っていて、それぞれ直接神様に召命されてクリスチャンになっている。今後、こういう方が増えてくるのだと思う。SNS社会が登場してから、個人の情報発信の参入障壁が下がったことで、副業的なビジネスとしてしかとらえていないお気軽ニューエイジャーが増えている。こうした潮流は非常に残念な傾向だし、霊的にも非常に危険なので、悔い改めてほしいなと深く感じる。霊的な仕事というのは、「人や社会のために、奉仕をするものである」というベースが何より大切だ。そして何より、御言葉と十字架によって立つということがいかに大事か。それは僕自身が重々経験してからこそ、これからもしっかりと証していきたい。

タロットリーダーだったり、神社仏閣巡りだったり、でもクリスチャンになってからは、皆、主の臨在を日々感じているので、そうした過去は手放して、辞めている。こういうトレンドが今後広がっていくと思う。
あとは、精神疾患と診断されて(これは聞けば聞くほど単純に聖霊の内住による預言の賜物が付与されただけとしか思えない)、苦しんでいたクリスチャンの兄弟姉妹もたくさんいた。意外と、現代の教会の中では、「預言は廃れ、異言は止む」(第一コリント13章8節)という御言葉の引用から、預言の賜物は初代教会で終わったとすることが多いし、教会にカルト的な教義が侵入することを防ぐという意味において、その理由もよくわかるが、一方でリバイバルは聖霊の働きを重んじるペンテコステ派や、聖霊派、きよめ派といった教派から起こってくることが多いので、一様に否定するのは決して聖書的ではないとも思う。そこを否定してしまうと、私たち一人一人に恵みとして与えられた聖霊の働きそのものを否定してしまうことになりかねない。生きた教会(普遍的教会/エクレシア)には必ず生徒に聖霊が宿り、それによって主によって生かされていることを日々体験する。これは決して軽視できないポイントだと思う。

日本のニューエイジャーのための聖書購解シリーズ

ロマ書はわりと誰にとっても意義深さを感じる最も重要なパウロ書簡のひとつであるのだが、個人的にはそれと同じくらいコリント書の教会形成論の深みが非常に好き。あれは本当に名著だよ。。。割と問題の多かったコリント教会だったからこそ、今でも通用する様々な神のソリューションが提示されているし、何より「信徒の群れに対する聖霊の宿り」と、「キリストの身体」という概念を分かりやすく提示している文脈が素晴らしい。初めて聖書を読む人に、パウロ書簡で何を読むべきかと聞かれたら、ロマ書と同時に、コリント書をまず一番に挙げたい。

・日本のニューエイジャーのためのロマ書講解
・日本のニューエイジャーのためのコリント書講解

みたいなテーマで、どこかの機会で、これまでの12年の経験をベースに、なぜ占い師からクリスチャンになったのかについて、熱く語りたい。

聖霊の注ぎという意味で言うと、やはり使徒行伝(使徒の働き)をニューエイジャーのために講解したい。

・日本のニューエイジャーのための使徒行伝(使徒の働き)

ペンテコステ神学などをしっかりと知れば、なぜ自己義認をベースとしたニューエイジでは、神学的に不十分なのかがよくわかる。ニューエイジにないものは、「信仰義認(完全他力信仰)」と「教会形成論」および「弁証学」。こうしたことを聖書神学からしっかりと学ぶことは、ヒーリングや異言や預言(チャネリング)を正しく理解するうえでも、これからの時代とても重要なものになると思う。

ニューエイジ的信仰によって伝統宗教がパーソナルな宗教に変わったことで

ある意味、日本人の信仰形態の一つとして、仏教や神道といった伝統的宗教から離れ、個人的な信仰をベースとしたスピリチュアリズムや、ニューエイジ 的信仰という収斂に至ったことで、ようやく正当にその信仰が外部から批判されうるポジションになったのだと思う。
そういった自分自身の信仰形態をメタ認知する文脈が存在しなかったからこそ、オウム事件のような問題が起こっていったのだと思う。宗教的信仰をすべからくカルトと考える日本独特の風潮は、逆に自らの信仰形態を批判的に認識できないという意味で、とても危険なことだなと感じる。信仰を持っていない人は、常にその時代の空気に振り回されることになる。

借金で苦しむニューエイジャーに必要な経済的な知識

わりとニューエイジャーで、セミナーなどで大枚をはたいて借金に追われて苦しんでいる人が多いと思う。これは、これはアクターも含めて。むしろアクターほどそうであることも多い。なぜならアクター自身がこうした借金に追われて、自分を追い込むことで、やむなく稼がなければならないという緊張の中にあるからこそ、事業を拡大させるからだ。しかしこれは本来のスピリチャリティから考えたときに、全く本質的ではないし、負の連鎖が生まれる原因といえる。ここにこそ、ニューエイジ的なマモン(お金)崇拝の罠が存在する。

なぜこうなるのかという背景を考えたときに、経営の安定のために、どれくらいの貯金が必要かということを冷静に教えてくれる人がいないのだと思う。つまり、本質的な諸悪の根源は、アクター側の経営学的な基本知識の欠如にこそあるのだ。

経営学上こうしたことを防ぐ基準は、明確にあって、これを「流動比率」という。大体、月の予算の10ヵ月分~14か月分(仮に毎月20万の経費ならば約2-300万円)は手元に絶対に残していないといけないし、まず最初に作るべきものはこの資本である。

事業の安定性は、臨時支出への体力×定期的支出の体力の掛け算で決まる。つまり10か月分の貯蓄というのは、5ヵ月分×5か月分でリスクが、1/25となるので、4%ととなり、5%以下のリスクを安全性として統計的有意としてとらえれば、10か月の貯蓄をベースとすることがまず何よりも大事。14か月分になれば、これが2%ほどになる。この流動比率を守ることは、本当に鉄則。

こういう経営的知識がないと、アクターの知識の貧困がさらにフォロアーの経済的貧困を生み出すという、貧困ビジネスが蔓延していくことになる。

また、そもそも税金はどのような所得であれ、おおよそ社会保障税や消費税とあわせて、1/3がかかるようになっている。つまり税金を納めずに、決算越しのお金を持つことは難しい。この流動比率はあがらない。節税だと思って、何でも経費として考えていたら一向に流動比率はあがらないし、いつもカツカツの状態が続いていく。何もこれはニューエイジャーだけの問題でなく、意外とこのサイクルの中でずっと苦しんでいる中小企業の方は多いし、特にこの10月からは消費税が10パーセントに上がるので、こういった経済的な知識はものすごく必要なものだと思う。必要な人に届きますように。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

日本におけるニューエイジ文化の終焉

揺れ動く感情という不確かなものではなく、主によって万物が創造される以前から存在している御言葉という確かなものに積み上げていければ、事業は安定する。それが本来のクリスチャニティから生まれた資本主義の精神。
ニューエイジ文化においても、事業的に長年ずっとうまく行っている人は、そもそもこうしたクリスチャニティ教育をどこかで必ず受けていて、そうした世界観に知らず知らずのうちに生きている。結局、ニューエイジ事業といっても、ビジネスである以上、価値を与え着付けていかないと安定した事業にはならないから。
ずっと日本においては、教会文化が非常に弱かったので、こうした人たちのよりどころは昔は、ニューエイジしかなかったということ。
しかし今は、リバイバルの時代なので、ようやくクリスチャニティが明文化される時代が来ている。 であるならば、何もわざわざ危険なニューエイジ文化の言語で話す必要は一切ないわけだ。

ニューエイジの本質はルネッサンス(人間性回復運動)にあり、90年代以降形骸化した社会システムの中で歯を食いしばって歯車になって生きてきた日本人を救った考え方。しかし、同時に歴史的に見ると、ルネッサンスと対になって現れるのが、キリスト教信仰の回復(リバイバル)で、ルネッサンス的世界観だと方向性的には宗教的堕落を生み出していくので、必ず反動でリバイバルが起こることになっている。これは歴史的真実。

 中世のヨーロッパで近代に向かう前に、ルネッサンスと宗教改革が同時に起こったことは、このルネッサンスとリバイバルという対になる現象の一つの大きな鋳型となっている。これは様々な文化が国際的にまじりあう時代に必ず起こる現象。そもそもキリスト教自体も、ヘレニズムの時代に成立した宗教。
皆、今は日本においてもSNSの台頭で、異口同音にルネッサンス(人間性回復運動)の論説になびいているが、世界全体は大きな波であるリバイバルの時代に入りつつある。霊的な文脈を正しく理解できる人は、おそらくこれからの10年を世界的なリバイバルの時代ととらえるだろうと思う。日本においても、安易なニューエイジ論になびかずに、時代の先端をしっかりと見て、世界的にやってくる大きな波であるところのリバイバルを、非クリスチャン国家である日本人に対して、いかに文化翻訳できるかが、価値ある仕事ができるかどうかという軸になると思う。

日本におけるニューエイジ文化の終焉と、クリスチャニティの到来というのが今後の重要な研究課題になっていくね。

ニューエイジャーが陥りがちな、無駄な人生のアップダウン

つまりニューエイジャー は、迷信を信じているから、人生のアップダウンが激しいんだな。なるほど。

「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。」
‭‭詩編‬ ‭1:1-6‬ ‭新共同訳‬‬

日本のニューエイジ文化に見られるカルト的信仰の背景

ニューエイジ文化が、商業化して、霊的に堕落していく大きな原因であるパワースポットや開運などの認知フレームを、「迷信」と批判するときは、ヘレニズム主義からみた科学的な見地からの批判では不十分で、結果的にへブル主義的見地から見た批判が必要だということだね。
そもそも多くのニューエイジャーはこれを「量子力学」でもいわれていることと自己弁護するが、はっきりいってそう主張するニューエイジャーは、シュレディンガー方程式のベースとなる波動関数の一つでも使って、数学的に説明する人を見たことがない。
少なくともシュレディンガー方程式のもととなっている波動関数を正確に理解するためには、大学数学程度の知識は最低限必要なはずで、しかしそういう人の経歴を見たときに、基本的な物理学的知識、数学的の知識をどこで教育を受けたのだろうかと疑問に思うことがしばしば。もしそうでないならば、単なる詐欺、詐称じゃないかと思う。単純にアニミズム的信仰を、ニューエイジ本で読んだ受け入りの知識で覆い隠しているだけなのでは?と思うし、もしそうならば、正直にそう言うべきなのではないかと思う。それが自身がよって立っていると主張する科学的精神なのでは?と思う。
こういった類のヘレニズム主義からの批判と同時に、今度はヘブル主義からの批判からも、受け入れる体力はあるのだろうか?たとえ、カント的合理主義からの批判に耐えたとしても、今度は、ヘブル主義からの批判に耐えうることはできるのだろうか?日本でも、科学者がニューエイジャー的傾向を持つことは多いのだが(そもそも科学というもの自体がそもそも、非へブル主義であり、思想的な背景はグノーシス主義や、新プラトン主義といったヘレニズム主義がベースとなる)、聖書的世界観を踏まえた理論物理学者というのも聞いたことがない。その信仰は、あくまで仏教や神道などのアニミズム的な世界観に基づいている。
少なくとも西洋におけるニューエイジ文化はこうした批判に耐えることが前提として成り立っている。ニューエイジ文化を生きるということは西洋において、こういう両極からの批判という緊張をはらんだうえで、活動していくことが前提であって、日本においてこうした諸外国では常識ともいえる前提がスルーされているということ自体が、日本のカルト的信仰の温床になっているのではないかと思う。

脱ニューエイジ

脱ニューエイジ した人のための聖書を学ぶ居場所(エクレシア)を作ることが、まずは大事なんだろうなと思う。ニューエイジ 的な言説に、わりと疲れてる人多いんじゃないかと思う。熱心だった人ほど。いまニューエイジ 的な思想を持っても、人間らしい繋がりって生まれないからね。
日本の場合、戦後海外から取り入れていたヘブル主義的文脈がなくなって、ヘレニズム化していき、汎神論ゆえに偶像崇拝のひとつ、マモン崇拝に陥っていったんだと思う。そこへカウンターとして入ってきたはずのニューエイジ が、むしろ今はマモン崇拝に回帰して行っている。教理として汎神論を取る以上、全ての人が信じるものを一つにするために、偶像崇拝にならざるを得ない。そして、そういう意味で目に見えるものを最大の抽象度まで引き上げたお金というものを神にするという発想は、まぁ非常に合理的に説明がつくことかなと思う。非常に愚かだとも思うが。

ニューエイジ的終末論の不完全性

ニューエイジ的な終末論というのは、汎神論である以上、非常に不完全なものなんだよな。そもそも終末論は、一神教的な集合的救済論と必ずセットにならないと、単純なカルト的教義に陥る。まずそもそも人格を持った一人の創造主が前提となっていない段階で、信仰義認という枠組みが成り立ちえない。ゆえに、技による救いがベースとなる。個人の霊的な能力やグノーシスによる救いを前提とするため、エリート主義に陥り、集団救済論が成立しない。そして、汎神論であるゆえに、シンクレティズムに基づくため、皆が同じものを信じられるようになるための弁証学が発達しない。ゆえにそれぞれが信じるものがバラバラになり、そもそも同じ神を信じていないためニューエイジの中で分離が起こる。結局のところ、「自分自身」だけが信じられる存在=神であるというところに行きつく。これが行き着く先は、単なる孤立と空中分解である。つまりキリスト教におけるイエスキリストを一つの身体とした信徒のつながりという、教会形成論自体もニューエイジ的の救いの教理にはないわけだ。
2012年アセンション以降、パラレルワールドという言葉で、エコーチェンバー的カルト化が進んでいき、どんどん空中分解していっている。こうした分離が進んでいる姿に、どこにワンネスを感じられるのだろうと不思議に思う。
聖書を学んで、こうした矛盾した構造、不完全な教理から目醒める必要があるのではないかなと思う。聖書の世界でも2000年間の間、「すでに/いまだ」の教理的構造の中で、どの時代にも常に終末論が機能してきたことを知れば、もうちょっと落ち着いて、今の現実をまなざすことができるんじゃないだろうかと思う。この2000年間、どの時代だって「すでに/いまだ」であり続けてきたわけだ。そういう視点を聖書の世界に誠実に学ぶべきなのではないかなと思う。
日本にはこういう聖書的な集合救済論の視点が文化的になかったからこそ、アメリカのカウンターカルチャーとしてのニューエイジ文化を誤解して受け取った。そして、ノストラダムスの大予言という終末論に基づき、安易に汎神論&技による救いという霊的に無防備な状態のまま突き進み、ニューエイジ的言説を振り回して、オウム事件のような悲惨な事件を生み出す社会になってしまったのではないかと思う。

ニューエイジ的文脈における、自分軸/他人軸という欺瞞

日本人のニューエイジ 文化の中では、自分軸/他人軸というフレームで日常的な諸問題の原因を捉える人がよくいるが、そもそもこの背景には、汎神論が存在している。おそらく自分軸が大事という論理は、ようは汎神論的に自分を神に見立てて、世の価値観(他人軸)ではなく、神(自分軸)の価値観で生きるべきだということを言いたいのだろうと思う。つまり、キリスト教世界で言うところの、アウグスティヌス が論じた神の国/地上の国の論理のように、地上の国の論理ではなく、神の国の論理で生きることが大事ということを、言いたいのだと思う。しかし、そもそもこうした神学的構造を理解せずに、本来一神教的な世界観を基盤にして生まれたニューエイジ 的文脈を、日本的汎神論を介して翻訳して伝えようとしているので、こうした文脈は、大きな文化的な誤解として受け取られてしまっている。
しかし残念なことに汎神論はそもそも神=自分(罪深き人間)であり、またそもそも汎神論が、集合的救済論として非常に不完全な要素を持っている(技による救い/グノーシス主義によらなければならない)ので、結果的にどれだけアウグスティヌス が論説し、西洋文明の基礎となった神の国の論理(イエスキリストによって創造主と自分の間にとりなされた軸)で生きようとしても、そもそも汎神論には創造主という絶対的な視点がないため、集合的救済論が成り立ち得ないという根本的な欠点があることに気づいている人は少ない。そして、自分軸/他人軸の論説は、そのままうのみにしてしまうと、結果的に自分が神だと思いあがった傲慢な人間ができあがる。
これはヘブル的な価値観を知らずに、ニューエイジ を受け入れてしまった残念な傾向であると言える。つまり他人軸であろうが、自分軸であろうが、そもそもヘブル的な「神の軸」を持たない限り、汎神論的世界観では罪深き人間の揺れ動く感情の上に成り立つ軸であって、決してこれは軸と言えるような不変のものではなく、いずれにせよ非常に脆弱な土台の上に成り立つ論理であるということ。これが他人軸であろうが、自分軸であろうが、そもそも日本人が精神的な自立を遂げられない大きな原因になっているのではないかと思う。
そもそも主語に自分か他人しかないという構造的な欠陥が、汎神論には常につきまとう。ゆえに、外側で起きることは、全て内側で起きているというグノーシス主義に陥っていくのだと思う。400年クリスチャニティ を拒み続けた上で、この20-30年で一気に国際化の波に飲まれている今、その世界観の抽象性をバージョンアップすることを怠ってきた代償は非常に大きいと思う。
サッカーや野球が、日本の枠組みを出て、海外で選手が活躍する中で、世界的な基準に触れ、スポーツ文化として成熟していったように、日本の精神性も、ちゃんと聖書を通じて、世界の常識であるヘブル主義を学ぶ必要があると思う。世界のリアリティを知らない安易な多神教優位論(しかもこれはすでに集団的救済理論として構造上非常に大きな欠陥をはらんでいる)をまずは脱皮しないといけないのではないかと思う。オウム事件なんかは、まさにその状況をシンボリックに象徴する事件だったと思う。
最近のニューエイジ の傾向は、こうしたヘブル主義的な価値観を持っていないがゆえに、本来は親世代のマモン崇拝に嫌気がさして、ニューエイジ の文脈に入ったのに、結果的に戦後日本が中軸としてきたマモン主義(経済中心主義)を無自覚に回帰しつつあるという不思議というか、非常に愚かな現象が起きている。結局のところ日本人の精神構造の中に戦後のマモン崇拝から抜け出せないまま、スピリチャリティも商業主義の中で偶像崇拝をしているに過ぎないのだと思う。決してこうした精神構造の中で、気持ちが休まる日は永遠に来ないだろうと思う。主を畏れ、悔い改めることは非常に大事。そうでなければマモン主義に基づく日本人特有のニューエイジ に巻き込まれて、自らの身を滅ぼしてしまうだろうと思う。

日本のニューエイジの問題点

日本のニューエイジ(いわゆるスピリチャル)の中でよく言われる、
・全ては私
・私が見るものは全て私の表れ
・外の世界は全て自分の意識が具現化したもの
・自分の心の内側に真実がある
こういった考え方は、すべからく汎神論になる。
しかし、そもそも、日本においてこうした論説が、汎神論であるという自覚はほぼ持たれていないのではないかと思う。
日本の神概念は基本的に汎神論である。八百万の神というよりも、汎神論というフレームで見るとより理解しやすい。あくまで八百万というのはたくさんのという意味で、つまり路傍の石も、大空の雲も、大地も、海も、動物も、あの人も、私も、全てが神のエッセンスを持っているという考え方を、汎神論という。
また、仏教も同様の汎神論である。自他の境界を越えて全てが我であり、その我を超えるという仏教の悟りも汎神論となる。
ちなみに、この汎神論が、人間の理性で構造的にとらえられるという考え方が、理神論となる。科学やグノーシス主義はこの汎神論の延長線上にある、理神論的なフレームとなる。
また、最近流行りの、パラレルワールドという考え方は、汎神論から発展した、唯心論、唯識論、汎経験論なフレームといえる。
ここで非常に重要なことは、これらはすべて一神教的な考えの反対の極にある考え方であるということ。
また、そもそも日本で生まれるとこうした汎神論的なフレームが当然の考え方になるため、無自覚に汎神論優位主義を取ってしまうという過ちを犯しやすいということだ。つまり、汎神論は、一神論に勝るという考え方にしばしばよく陥る。
日本人が持ちやすい汎神論優位主義は、結局のところ、そもそも新旧両訳聖書を実際に読んだことがない人の、一神論に対する無知、それ以上に自分が汎神論優位主義に陥っていることに気づいていないことからくる単なる誤解であるということが、非常に多い。
ちなみに、西洋で論じられる汎神論は、基本的に、一神論を一度踏まえたうえでの、選択的な結果として現れる汎神論になる。つまり、スピノザのように自覚的に汎神論を選択している。
あえてメインストリームをメタ認知する上での自覚的な汎神論か、自らの歴史や文化に規定された結果無自覚にその中にいる汎神論かでは、その意味合いが相当に異なってくるという視点はとても大事だ。
こうした日本における汎神論優位主義というフレームは結果的に、ニューエイジの受容過程において、非常に重要な文化的な誤謬をもたらしているといえる。
あくまでニューエイジは、一神教的な世界をベースとしたうえで、そうした父権的な構造を否定するために生まれたポストモダンの思想である。つまり、ポストモダンは、モダン(近代)を経由して、初めて成立する思想だ。そもそもモダンを経由していないで、そのままポストモダンに進もうとすることは、そもそも、本来は、単なるプレモダン(前近代)への回帰でしかない。
そもそも日本の宗教観は、江戸時代の鎖国政策によって約400年間にわたってヘブル的な一神教の受容が起こらなかったため、本質的な意味では、汎神論から、一神教的な世界へのモダナイゼーションが起きていない。戦前の国家神道もヘブル的な価値観を取り入れたとはいえ、神道である以上大枠は基本的に汎神論である。
つまりそもそも日本の宗教観はモダン化していないからこそ、ポストモダンに行きようがない。その上で、特にアメリカを中心としたポストモダンな思想が流入したことで、メタがベタに受け入れられてしまった。その結果、日本は、そもそもヘブル的な価値観を知らないまま、単なる汎神論優位主義に陥ってしまっているといえる。
具体的に言うと、最初に紹介した、
・全ては私
・私が見るものは全て私の表れ
・外の世界は全て自分の意識が具現化したもの
・自分の心の内側に真実がある
というフレーズを、ニューエイジ書籍で見たときに、「そうそう、これこそが私たちの東洋の文化の神髄だ!」「ついに西洋で発展してきた科学の世界が、東洋の叡智に近づいてきた!」と鼻高々になってしまうということ。
しかし、あくまでこうしたフレームは、西洋ではモダンを経由したのちに訪れるポストモダンであるにも関わらず、自分自身は、単なる汎神論優位主義に陥っていることも知らずに、ベタにこれが素晴らしいと受け取ってしまう。
本当に素晴らしいかどうかは、一神教の構造を新旧両訳聖書をしっかりと読み、その神学構造を知ったうえで、スピノザなどの汎神論の書籍をしっかりと検討したうえで、意識的に選択しなければ、「自分の考え」とはいえず、あくまで文化に規定された「無意識的な選択」にしかすぎない。少なくとも海外のポストモダンは、そうやって東洋の思想を取り入れている。
単純に海外からくる東洋っぽい思想をありがたく受け取って、何の批評も検討もせずに、ベタに逆輸入されたありがたい思想として、受け取るのは単なる文化的、知的怠慢だと思う。
そういう西洋の人々が培ってきたモダンからポストモダンへの移行の努力を、東から西へ、日本人もしないといけないのではないかと思う。少なくとも海外における日本的な汎神論受容は、モダンの枠組みから抜けるために、鈴木大拙などを読んでいるわけで、そういう努力を果たして日本の宗教的世界はやっているかということは、非常に重要な視点ではなかろうか?
こうしたことを宗教界において、真面目にやっていたのが、内村鑑三や新島襄であって、こうした日本の宗教界をモダン化しようとしていた先人たちの道のりを無視して、ありがたくニューエイジを信奉している現在の状態は、決してプレモダンであって、ポストモダンとは言えないのではないだろうか。
また、こうした視点が、なぜ重要かと思う理由は、汎神論的世界観においては、聖書的な信仰義認による集団的救済論と結びつきようがないということ。このルターが再発見した信仰義認による集団的救済論というセオリーから、資本主義の思想や、近現代化が始まった。マックスウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の論理」で論じるように、モダナイゼーションは、明らかにキリスト教のプロテスタンティズムから始まったのだ。
日本がそもそも国際化の波に本格的に巻き込まれるのは、おそらく有史以来初めてのことだ。しかもそのスピードは人類史上かつてないスピードで加速している。その意味で、西洋で体験された宗教改革を経ずに、私たちの思想的なベースは、一気に世界のモダナイズされた宗教観に追い付かなくてはいけなくなってしまっている。ある意味、非常に危機的な状況にあるのだと思う。このあたりが、今のニューエイジの中で見られ始めている混乱(群発するエコーチェンバー型カルトの存在)の背景にある流れであるし、そもそも、1995年に日本に衝撃を与えたオウム事件はその日本的ニューエイジの闇を露呈するものだったといえると思う。しかし、SNSによって広がっているエコーチェンバー型のカルトは、潜在的にそれ以上の危険性をはらんでいるのではないかと思う。
こうした日本においてブログやSNSなどを中心に広がっている群発型カルトの多くの共通する特徴は、無批判に「自分を愛することが大事」というニューエイジ的な教理を受け入れ、結果的に、単なるモラルハザードが行われていくということ。こうした部分が、おそらく今後、経済的な破綻、人間関係の破綻、道徳的な破綻という形で、あるいはそれらが複雑に絡み合った状態で、波及していくのではないかと思う。昨年末に商用利用が解禁されたアメブロなどでは、すでにこうした問題は表面化しつつあるといえる。
今後かなり早い段階で、群発するエコーチェンバー型カルトの問題は、表面化していくと思う。オウム事件のように大変なことになる前に、今の日本のニューエイジが置かれている状況は、とても危険な状況にあることに、気づかなければならない時なのではないかと思う。
少なくともしっかりと、ヘブル的な価値観、一神教的なフレームを知って、こうした日本特有の汎神論優位主義に基づくニューエイジ信仰が陥りやすい、カルト的問題に、個人のレベルでもしっかりと守備を固めていくことはとても大事なことになっていくのだと思う。
少なくとも、キリスト教の三位一体や信仰義認の教理を知ることで、こうしたカルトの問題について、巻き込まれず俯瞰してみることができるし、その悪影響をしっかりと防ぐことができる。長年の歴史の中で、様々な宗教の中にあって揉まれてきたキリスト教世界特有の洗練された神学を、今の混迷する時代だからこそ、一度はしっかりと聖書を読んで学んだほうがいいのではないかと思う。

ニューエイジ的な思想をベースにした人間関係の問題点

ニューエイジ の場合、物事の選択をする際には、ポジティブシンキングをベースに考える。つまり物事には、自分を中心としてポジティブとネガティヴの二元性があると捉える。また自分の意識が創造の中心であると考えるので、ポジティブによりすぎて問題が生じた際には、それは自分のネガティヴな部分を受容する時だと説く。あくまで全ては、自分の意識を中心に展開する教理がニューエイジだ。
クリスチャニティの場合は、そもそも二元性は主と人間との間にあると考える。その中心は決して人間や自分ではなく、神にあると考える。罪人である人間は、そもそも最初からネガティヴなものを背負っているので、神を中心にして悔い改めることをベースに考える。主に赦しを祈り求め、主イエスキリストにおいて罪が贖われ、主が赦し、愛されるように、私も隣人を赦し、愛するという考え方だ。
つまりニューエイジ におけるポジティブシンキングと、クリスチャニティ における悔い改めとは真逆の考え方であると言える。
この考え方の違いが大きく影響を与えるのは、人間関係における親密さの領域。ニューエイジ的思想をベースに考えると、必ずこの種の問題に行き着く。
人間関係における親密さとは、赦しや悔い改め、主の愛という源泉があって初めて成り立つことで、それなしで、永続的で親密な関係性は難しいといえる。主の赦し無きところに、個人の自立的な意識と、他者との親密さの両立はあり得ない。そうでなければただ同じ意識を持った人間同士が集うムラ社会があるだけである。ムラ社会における関係性は、価値観が異なる個人については、排他的な態度をとる。そうしたピアプレッシャー(社会的同調圧力)に基づく関係性は、決して健全で親密な人間関係とは言えないだろう。
こうした排他主義はイエスも戒めていて、汝の敵を愛せよと伝えている。
「自分を愛してくれる人だけを愛したところで、ほめられたことでも何でもありません。神を知らない人でさえ、それぐらいのことはします。 よくしてくれる人にだけよくしたところで、何の意味があるのでしょう。罪人でさえ、それぐらいのことはします。」
ルカの福音書 6:32-33
また、ニューエイジ 的な考え方はしばしば自分の意識が具現化するという教理(つまり自分を神とする)を第一とする。そのため、原罪という概念がないニューエイジの世界観において考えられうる唯一の罪は、ネガティブな意識を持つこと自体にあるわけで、それをあがなうためには、そうしたネガティビティを自分の力で手放すという教理をとる。むろん、主に自分の罪への赦しを乞うという要素がないので、あくまで自分中心の視点でしかないし、あくまで自分の視点でネガティブだととらえている人間関係を切り捨てているだけに過ぎない。自分の内側にある原罪の意識自体は、主への祈りと、主の一方的な恵みによる赦しと愛によって救われていないので、結果的に、常に同様の問題が起こり続けることになる。
あるカソリックの教会に行ったときに、神父の方が、「キリストの道は、切り捨ての道ではない」ということを何度も繰り返しおっしゃっていたことがとても心に残った。SNSとニューエイジ的な思想とは個人主義とネットワーク的なつながりといういう意味で、非常に相性がいい。そういう人類の技術的進展も相まって、この10年でニューエイジ的な思想はものすごく広がったように思う。しかし、SNS特有の人間関係の希薄化や細分化という問題については、今後しっかりと考えないといけないのではないかなと思う。
おそらく現時点では、あまり言語化されていない領域とはいえ、SNS疲れも、このあたりにあるのではないだろうか?
クリスチャニティについて深く学ぶにつけて、こうしたニューエイジが持つ、特有の負の影響をどのように乗り越えるべきかは、非常に現代的なテーマなんだろうなと感じる。
ちなみに、このあたりは、社会学ではエコーチェンバー現象といわれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E7%8F%BE%E8%B1%A1
特にSNSはその仕組み上、エコーチェンバー現象が起こりやすい。人間関係のあり方は、すべからくその時代の技術的なベースにも大きな影響を受ける。こうしたエコーチェンバー現象のネガティブな側面(これは社会の階層化や、社会的格差という問題も生み出していく)を乗り越えていく意味でも、クリスチャニティというものについて考えることは、非常に重要なものになるのではないだろうか。

日本のニューエイジにおける「ありのままの自分を愛する」という誤謬

日本のニューエイジの文脈の中で、「ありのままの自分」を愛することが大切という考え方の中で、一つの重要な欠点は、聖書的世界の基礎知識がないことにある。
一般的に、日本人が契約という概念に疎いのも、そもそも旧約聖書の中において描かれる神と人間との間にある厳格な契約概念を知る機会がないからだ。
旧約聖書の世界において、神との契約(十戒)に背くということは、厳然たる罪であり、その罪をあがなうためには生贄が必要だという概念に基づいている。これは、神の義の側面が強調されている。
そして、神の愛の側面が強調された新約聖書も、あくまでこの義の神の上に成り立っている。新約聖書においては、人類を憐れんだ主の一方的な恵みの愛によって、人類の罪をあがなうために、何よりも大切な我が子を、人類の罪をあがなうために生贄にささげることに決める。
つまり、分かりやすく言うと、主は、自分に重大犯罪を犯した当の本人たちである人間の死刑判決という罪状を贖うために(人類の犯した罪は、原罪のために永遠の生命を失い、死を体験することになったという意味においても、まさに死刑に値する罪であったといえる。)、自分何ものより愛する子供を、生贄にささげることことになさったということ。この途方もない主の愛の姿が、キリスト教における神の愛の側面なのだ。
自分の子供を、自分に重大な罪を犯した犯人のために、愛する我が子を生贄にささげることでその犯人のすべてを赦す愛を考えてみてほしい。しかも、犯人は自分の罪の重大さを自覚せず、ともすると反省せず、そのままのうのうと人生を生き、死ぬまで罪を犯し続けるかもしれない。それでも、その人に救われてほしいと願い、忍耐強く、最後の審判の日まで待つことにすると決めた。主の愛は、そのような自分の感情に寄らない、主体的で、無償と犠牲の愛なのだ。イエスが語られた愛とは、この主の愛のように、互いを赦しあいなさい、敵を愛しなさいというメッセージが含まれている。それゆえ、「自らの罪を悔い改めなさい」と告げたのだ。
そして、主のこうした哀れみの愛に基づいて、自らが人類のために生贄になることを、イエス様は、進んで引き受け、そして、その御技は2000年前に十字架の犠牲と3日後の復活(死の超越)によって完成した。人類というと非常に壮大に聞こえるが、つまりは、2000年後の自分自身のために、神は自分の御子を生贄にささげられたということを感じると、いかにそれが自分自身にとって重大なことなのかを実感できると思う。
つまり「ありのままの自分」を愛するのは、私自身ではなく、主であるというという厳然とした前提条件が、日本のニューエイジ的な考え方には、すっぽりと抜けてしまっているのだ。

ニューエイジ文化における恋愛観の構造的な矛盾点

日本におけるニューエイジ文化独特の恋愛観構造の矛盾点がよくわかった。
ソウルメイト、女性の社会的、精神的、経済的自立を前提とした対等なパートナーシップ、両性具有的なジェンダーフリー論、内なる女性性、内なる男性性といった概念、個人の中での両極性の統合といったニューエイジ特有の考え方って、そもそも、アメリカのウーマンリブやフェミニズム、女神運動、ペイガニズムなど、聖書的な家父長制に基づく男尊女卑的な価値観を否定するために生まれた概念で、伝統的なキリスト教カソリックのサクラメント(秘跡)としての結婚を否定するためのものだから、ニューエイジ的価値観を進めれば進めるほど、そもそも家父長制に基づいて形成されていたカソリック的な愛であるロマンティックラブイデオロギー(一生に一度の相手と恋に落ちて、結婚して、愛する子供を育てることが素晴らしいという概念)から、むしろ遠くなるんだわ。つまり(福音が内在していない)ニューエイジと、ロマンティックラブイデオロギーは両立しえないということだね。
そもそもこのロマンティックラブイデオロギー自体が、伝統的なキリスト教観からきていて、人の愛(エロス)ではなく、神の愛(アガペー)が前提となっているから、そもそも創世記に基づく聖書的な世界観がないと普通は成り立たない。日本にロマンティックラブイデオロギーが入ってきたのは戦後映画などでアメリカ文化が入って以降の話。戦前は、日本の伝統的な家同士の結婚という価値観であって、お見合い結婚が中心で、恋愛結婚はあまり一般的ではなかった。
ニューエイジ的恋愛観を信奉するということは、神は外側ではなく、自分の中にあるということだから、聖書的な神に約束するという要素ではなくなるわけで、結婚という枠組みに永続性がなくなるのは当然のこと。
しかもビートルズというアイコンを中心として、サブカルチャーとして70年代以降に入ってきた、日本のニューエイジ は、前提として聖書的な世界観やイエスの福音の概念がないので、そもそも最初からサクラメントとしての結婚という概念や、ロマンティックラブイデオロギーのベースとなるべきアガペー的価値観を担保する福音の要素もないわけで、ますます状況は悪くなる。
イタリア人の離婚率が非常に低いのは、そもそも伝統的なキリスト教のサクラメントとしての結婚観があるからなんだな。
そもそもロマンティックラブイデオロギーとニューエイジ的恋愛観はその成り立ちからして矛盾していることを、そもそも日本にいると、ニューエイジ の他の要素同様、非常に気付きにくい構造になっているんだね。

ニューエイジカルチャー

70年代のニューエイジカルチャーが、安易に薬物に頼り、本来の東洋の精神性からほど遠い退廃した文化を形成したのも、キリスト教世界に「技による救い」という文脈がなかったからこその、脆弱な構造があったからだ。むろんこうした人としての弱さから、サタンが入ってくる。確かにこうした状況を観れば、キリスト教社会から見れば、ニューエイジがいかにもサタン的なものに見えてしまうのは当然だと思う。しかし本来の東洋の思想や人間哲学からは程遠いことは、東洋の名誉のためにも強調しておきたい。

ニューエイジムーブメントに巣くうサタンを退け、主の御名を尊ぶ時。

イザヤ書 24章15節 「それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び/海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。」
まさにこの時が来ている。スピリチャルという形で一気に流行したニューエイジムーブメントから、正しい聖書理解へと日本人自身が意識を切り替える時、そしてニューエイジムーブメントに巣くうサタンを退け、主の御名、イエスキリストを尊ぶ時が、まさに今なんだ。
令和とは、霊和と解ける。つまり霊を和する時が今であり、なぜ天皇陛下が今このタイミングで譲位されるのかということも、聖書の預言から見ても、非常に深い意味があることは間違いがないと思う。

マンデラエフェクトで、聖書の聖句個所がたくさん変わっている?という質問について

聖書の聖句個所がたくさん変わっているんですか?という問い合わせが多数あり、見ていると、日本のニューエイジャーが作っているYouTubeの動画を共通して見られているようです。

神学的に考えれば、 聖書の御言葉は、永遠に変わることがないもの。それゆえもしその記述が変わっていたとするならば、マンデラエフェクト自体を起こしている霊が、悪霊からくるものであるということが判別できます。それゆえ神学的に非常に慎重に見ていかなければならない領域だといえます。

「こう言われているからです。 「人は皆、草のようで、 その華やかさはすべて、草の花のようだ。 草は枯れ、 花は散る。 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」

ペトロの手紙一 1:24-25 新共同訳

そしてその論点を踏まえた上で、指定の動画を検証してみたのだが、おそらく個人的にキリスト教への反感やある種の敵意を持っている方で、ちょっとあまりにも映像編集に悪意があったので、これはちゃんと正した方がいいのだろうと思い、また質問も増えてきたので、一覧して見られるように記載します。

欽定訳聖書の内容が1000か所以上変わっているというセンセーショナルなタイトリングの動画ですが、引用されているのは 1611年(日本でいうと江戸時代)に翻訳された欽定訳聖書(King James Version)。時代的にはちょうどシェイクスピアの時代。

基本的な聖書神学の知識と、中世の英語の教養(例えば、youがthyやthouと表現されたり、souldがshaltと表現されるなど)があると、わりとこの動画でいわれている指摘は、これらは 単純に 古語の知識不足からくるものだと客観的に判断できる。 1963年の新アメリカ標準訳聖書(ASV)日本語の新共同訳 口語訳などは変わっていません。

highway(街道)やmatrix(古語で子宮) alien(異邦人/外国人)table(石板)など挙げられている全ての例が 聖書に関わらず普通に使われる英語表現。日本でいうと江戸初期の翻訳の中に 現代のSF風なワードが使われていると感じて その異化的な作用から認知不協和が起きているのだと思います。

またそもそも聖書というのは原文が、旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシア語になります。そこで、聖書の中身が変わっているとするならば、そもそも原典となるヘブル語やギリシャ語の写本全てが連携して変わることになるはず。もちろん日本語もそれに連動して変わります。(基本的にマンデラエフェクトの特徴は、オーストラリア大陸の移動のように歴史から何から完璧な形ですべてのものが連動して変わるので、ほかの要素との関連性に矛盾が生じないような変化となるはず)

しかし、むろんそうしたことは起きておらず、単なるこの方の中世の英語に対する(あるいは動画を見ていると、そもそも ルカ19章23節の銀行や利子の話 、 27節の終末の日の裁きの話 、タラントンやムナのたとえすら知らないという意味では、聖書の内容そのものへの)教養不足による誤解だということは、客観的に判断できます。

日本語の動画の編集自体に、おおもとの映像以上のメッセージを入れ込もうとする編集上の悪意を感じたのですが、アメリカの方のサイトを拝読したところ、悪霊の追い出しのミニストリーをされている方で、おそらく特定の教派の教会ではなく、牧している方のカラーが非常に出やすい単立教会。この方の見解では、マンデラエフェクトはCERNの書き換えが原因で 悪霊からの聖書への攻撃だということになっていました。しかし冷静に考えると上記の点においても、そもそも原典となるヘブル語や、ギリシャ語、もちろん日本語の他の言語を含めたものは連動して変わっているということはありませんでした。

しかし、興味深いことは、こうした発信源が、特定の悪意を持ってオリジナルの動画から再編集したものが 、さらに人の手に渡る中で、話が膨らんでいくこと。そして、「聖書の内容が変わった」という伝言ゲームをしてい人のほとんどが、そもそもほとんど聖書を読んだことのない、そもそもキリスト教に対して割と強い偏見を持ったニューエイジャーの方が多かったということ。

そもそも記憶が書き換わったということを証言するには、それ以前に読んで記憶があるということがマンデラエフェクトの実在を証言する前提なのですが、結局自分の記憶をもとにしていないため、どんどん伝言ゲームで話が大きく膨らんでいく、いわゆるニューエイジにありがちなエコーチェンバー型のカルト的言説になってしまってるようでした。

また、こうした伝言ゲームが執り行われていたプロセスで共通して感じるのは、おそらくキリスト教というもの自体に、よい印象をもっておられないのかな?という感じを受けます。

個人的には、これを機会に、ニューエイジという文脈を、客観的にメタ認知して知るためにも、聖書を読んでいただければな…と感じます。

また、ニューエイジ文化の危険性についても書いています。何よりも僕自身がニューエイジ文化のど真ん中にいましたから、 むしろ12年もの間ニューエイジ文化を積極的に引っ張っていた側の人間だったわけで、誰よりも罪が重く、むろんどんなニューエイジャーも裁くことはできないし、そもそも僕自身クリスチャンとしても、罪人でしかありません。今の自分の身において、そうした罪を贖ってくださった主イエスキリスト以外に、全く持って誇るところはないなと感じます。ただただニューエイジ文化の持つ危険性を知り、同時に福音の恵みを知っていただければ嬉しいなと思い、日々、証しています。

https://church360vr.com/?s=%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B8

主の平和がありますように、父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

マンデラ大統領という偉大なクリスチャン

土曜日のパワーブレイクファーストにて、ご一緒させていただいている国際弁護士で、伝道師の佐々木満男先生。以前僕自身がニューエイジからクリスチャンへと、つまりイエス様へと召されたきっかけとなったマンデラエフェクトというひとつの徴についてお話したのですが、その後、先生も誠実にこの話に耳を傾けてくださり、今日はあるメッセージをいただきました。そもそもマンデラ大統領は非常に敬虔なクリスチャンです。このマンデラエフェクトという言葉自体に、敬虔なクリスチャンの名前が選ばれていること自体に主の御手、大いなる意図があるように感じます。

ふと、杉本さんの「マンデラ・エフェクト」について考えていたら、「マンデラ・サンクス」という言葉が思い浮かびました。「マンデラ感謝」という意味です。

マンデラ氏は南アのアパルトヘイト打倒の武力闘争派の指導者として捕まり、国家反逆罪で本来ならば死刑であるところを、裁判官が国際世論を気にして無期懲役刑に処せられました。海の孤島の刑務所に入れられたマンデラ氏は、釈放されるまでの27年間、毎日、朝起きてから寝るまですべてに感謝する生活をつづけたとある本に書いてありました。その結果、敵を愛し闘争をやめて赦す気持ちに変わり、出獄後は和解の道を歩みノーベル平和賞受賞後に南アの大統領になりアパルトヘイトは全廃されました。まさに「マンデラ感謝」の力です。

そこで、私も眠い頭で感謝をし始めました。感謝すればするほど感謝するべきことが思い浮かび、ノンストップになりました。そうしたら聖霊に満たされてきて、周囲が天国のように思えてきました。自然に顔がほころんで、何もないのにニコニコしたり、小さなことに笑いがこみ上げてきました。そして、自転車でふらっと夕食を食べに出かけました。道を歩く人々が愛おしく誰にでも挨拶したいような気分でした。餃子が食べたくなって原宿餃子に行くと長蛇の列です。あきらめて、たこ焼き屋に行こうと歩き始めたら、原宿餃子のマスターが中から出てきて、ニコニコして長蛇の列を無視して、そのまま私を招き入れ一人席に座らせてくれました。何か狐につままれたような感じでした。いつもは気難しいマスターが私をみて笑いながら挨拶をしてきました。そんなことは初めてです。餃子を食べてから、近くの喫茶店で眠気覚ましにコーヒーを飲んでいたら、女の店員さんが近寄ってきてニコニコしながら挨拶して話しかけてくれました。その店には何度も入っていますが、これも初めての体験です。

佐々木満男先生からのメッセージ

主にあって深く感謝します。
マンデラエフェクトはどうも色々な方の経験を見ていると、その時イエス様の臨在があるようなのですよね。どうも御國に招いているようにしか思えないのですよね。

その意味でもマンデラサンクスとは、主イエスキリストの臨在への感謝と賛美になりますね。アーメンです。

from 杉本譲治

聖職者の財政的問題

そもそも聖職者が元ニューエイジャーに生活苦から借金の無心を依頼しなければならない状況自体が、いかにいまの教会世界が弱ってしまっているかを物語っていると感じる。福音をしっかりと伝えて、信仰の回復とともに、聖職者がしっかりと盤石な経済的な基盤を持てるようになることは、リバイバルの基本になっていくと思う。クリスチャンにとって本来誇りの存在であるべき聖職者はあくまで、清貧であるべきであって、俗貧にさせてしまってはいけない。そのためには周囲の人間がしっかりとしないといけない。多分こうした教会特有の問題は僕だけじゃなく、あらゆる教会であるんじゃないかとも思う。高齢化が進む教会では、こういったことに直面するのは、おそらく僕だけでないだろう。そうやって、何も手を打てないまま、教会はすたれていくのだと思う。問題は必ず個人の資質以上に、置かれた環境やシステムによって作り出されるもの。これは経営コンサルタントとしての視点。そういう視点も、牧師先生方や多くのクリスチャンのために、VRなどを使って、今後しっかりとお伝えしていこうとしみじみと実感する出来事だった。

「ゴッドファーザー」とクリスチャニティの精神

映画「ゴッドファーザー」の中でさえクリスチャニティ の精神は現れる。否、正確にはマフィア映画の「中だからこそ」と言ったほうがいい。クリスチャニティ は自らを義人と思う人のためのものではなく、罪人のための教えだからだ。どんな悪人においても、人格の上に人生を積み上げていける理由は、イエス様の十字架の贖いという霊的な儀式の執り行いがあるからだ。そもそもゴッドファーザーという言葉や概念自体が、カソリック の洗礼式の習慣から来ている。
マーロンブランド演じるヴィトーコルレオーネは、正義を「戦いのなかで振りかざす剣」と捉えず、「平和のうちに撒く種」と捉えた。それゆえ人々は彼の蒔く正義という種に従った。父親の正義を、戦いの中で振りかざす剣として捉え始めた段階で、アルパチーノ演じるマイケルはどんどん転落していくことになる。
いまの50代以降の方々が口々に言う「昭和の大物像」はまさにこのヴィトーコルレオーネが示す元型そのものである。そこにはすでにどんな罪人でも十字架の贖い故に義とされる神の慈しみ深き愛と、平和のなかに蒔かれる正義の種という共通する性質がある。現代的ポリコレや、ニューエイジ 思想のなかで小さくまとまった自己義認の器とは大きく異なる。その背景にはやはり主イエスキリスト がおられる。アーメン。

「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。」
(ヤコブの手紙 3章18節 新改訳2017)

結局こういう作品の中に現れるような人間的な「器」こそ、経営者に求めらられる資質になるのだと思う。こういう失われてしまった精神を僕の世代から復興していくことが、リバイバルだといえる。アーメン。

安定して成功している人の要因を観察していくと

社会人になってから、安定して成功している人の要因を実際の体験を通じて観察していくと、揺るぎない土台の上に自分の人生を置いていることがわかる。共通するのは人格主義。自分の感情の上に人生の基盤を置かずに、人格の上にこつこつと結果を積み上げていく。こういう方々の背景にはほぼ確実にイエスキリストがいる。つまり信仰がある。信仰がなければ、世にあって一貫した生き方を持つことは難しいものだ。敬天愛人を是とした明治の志士たちや、昭和の大物(最近50代以降の人からこうした「昭和の大物」がいた時代の話をよく聞く/おそらく何かしらの共通するアーキタイプを見ているのだと思う)たちの背景にあったものを回復すること。これがまさに信仰の復活、リバイバルになるわけだ。

安定した成功を収めていく人が、揺れ動きやすい感情の上にではなく、人格の上に自分の人生を積み上げていける理由は、何よりもイエス様の十字架を知って、信じていることで「罪責感」からの解放があるからといえる。自己義認ではない信仰義認によって、自然と人の愚かさを赦し、また自らも自らの罪を悔い改めて、日々新たにされていくからこそ、感情の上にではなく、揺るぎない人格的土台をベースとした人生を築いていくことになっているのだと思う。この辺りが言語化できるようになってきたことは、何より聖書の御言葉を学ぶことでもたらされる「よい実」の一つである。
すぐに技による救済論、ナルシシズムや、揺れ動きやすい感情の上に成り立つ自己愛的人生に陥るニューエイジ 的な思想を冷静に見つめ、乗り越えていかなければならない時代だと思う。

マンデラエフェクトについて言及していると思われる聖書個所とその考察

「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」 マタイによる福音書 24:42 新共同訳

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましている ようにと、言いつけておくようなものだ。 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」マルコによる福音書 13:32-37 新共同訳

わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。第1コリント15:51

「土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」 第1コリ15:48-49 新共同訳

「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」 コリントの信徒への手紙一 15:42-43 新共同訳

「また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。」 コリントの信徒への手紙一 15:40-41 新共同訳

「その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。 あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。 その日、わたしは 奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」 ヨエル書 3:1-2 新共同訳

「天と地に、しるしを示す。 それは、血と火と煙の柱である。 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に 太陽は闇に、月は血に変わる。」 ヨエル書 3:3-4 新共同訳

「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。 主が言われたように シオンの山、エルサレムには逃れ場があり 主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」 ヨエル書 3:5 新共同訳

創造主は時間そのものを作った方。なので構造物としての時間的位置を移動させられる。 「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」」 ヨハネの黙示録 1:8 新共同訳

ヨハネの黙示録に出てくるイエス様の御言葉。 「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、 また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」 ヨハネの黙示録 1:17-18 新共同訳

「神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。」 ヘブライ人への手紙 1:2 新共同訳

「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」 ヘブライ人への手紙 1:3 新共同訳

「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。 それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」 ヘブライ人への手紙 7:24-25

「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」 コリントの信徒への手紙一 1:21 新共同訳

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、」 コリントの信徒への手紙一 1:22-23 新共同訳

「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」 コリントの信徒への手紙一 1:24-25 新共同訳

「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」 コリントの信徒への手紙一 1:27 新共同訳

「また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」 コリントの信徒への手紙一 1:28-29 新共同訳

汎神論や理神論だと、マンデラエフェクトはパラレルワールドという理解になり、「自分が創造主」という結論に至る。聖書だと、時間は創造主の被造物であるという理解になり、「自分は神の子」と教える。「自分が創造主」と教えたのは、エデンの園で誘惑したサタン。ここが重要なポイント。

ようはこの問題は、非常に神学的なテーマをはらんでいる。最初僕は、ニューエイジ、すなわち汎神論や理神論の神学を持っていたが、最終的にニューエイジの元となった神智学の研究をした結果、そこにサタンの罠を見た。イエスキリストよりも上位にサナトクマラを置く。このサナトクマラがサタンなのだ。

ニューエイジでは、必ず創造主イエスキリストの上にサタンの権威を置く。ニューエイジではイエスキリストとはマイトレーヤ(弥勒)と同一とし、369。これは聖書の666(反キリスト)であり、巧妙な罠。日月神事では、567(国常立尊)。国常立尊とは龍。つまり聖書の中の年老いた蛇、サタン。

イエスキリスト(聖書)と、マイトレーヤ/サナトクマラ(反キリスト)は、似て非なるもので、しかし巧妙にこれはニューエイジ神学の中では偽装されている。これは何も今始まったことではなく、実はヘレニズムの時代にマニ教という形で、すでに存在していた構造。今日本ではそれが再現されている。

聖書の預言と、日月神事の預言は、同じ終末預言で、似ている部分も多いが、しかしどの霊から出ているかをしっかりと見極めることが大事。「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」 ヨハネの手紙一 4:1 新共同訳

「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。 イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。 イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」 ヨハネの手紙一 4:1-3 新共同訳

汎神論/理神論に基づく、パラレルワールド神学の決定的な致命点は、それぞれの認識がそれぞれの現実を創るという美辞麗句で、人々が分断していくこと。これが結果的に、道徳的な退廃をもたらしていく。これも聖書の御言葉でしっかりと預言されている。

ニューエイジャーでチャネリングができる人は、ぜひ聖霊派や、ペンテコステ派の神学を学んでほしい。そうすると、霊的な視座から、おのずと聖書が正しい御言葉であることが理解できるようになると思う。

後のものが先になる

今後、ニューエイジ から、クリスチャニティ に入って行く人が増えていくと思うが、これはまさに「後のものが先になる」という御言葉通りになっていくと思う。これからクリスチャンになって行く人たちの勢いと聖霊の注ぎはとんでもないことになると思う。

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 それで、受け取ると、主人に不平を言った。 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
マタイによる福音書 20:1-16 新共同訳

陰謀論をメタ認知するために

陰謀論という権力論に関するベタな文脈を、メタ認知するには、「権力」とは何かという政治学や社会学の知識もとても大事になる。マックスウェーバー、マルクス、サミュエルハンチントン、ミシェルフーコー、ハンナアーレントなどもそうしたメタ認知において、必須の知識だと思う。権力を構造として捉える視点を持たない限り、永遠にジャーナリズムの域を超えないし、根源的な問題は解決しない。

そうでなければ単なるペーパーバックの知識の寄せ集めになってしまう。それはニューエイジ 的なポップカルチャーの域を超えない。またそれだけでなく実際にその背景の存在するものは霊的な存在でもあるため宗教学や神学も大切だ。エコーチェンバー化する時代においてはなおのことこのことを理解することは大事だ。そうしないとミイラ取りがミイラになってしまうだろう。

そして、エコーチェンバー化するSNSの時代において、こうした学問的な「物事を俯瞰して構造的/抽象的に捉える視点」よりも、何よりも大切なことは「汝の敵を愛せよ」の地に足のついた精神だ。福音は決して知恵あるものに啓示されたのではなく、謙遜ぜ砕かれた心を持った小さきものにこそ与えられた。

「迫害するもののために祈る」「汝の敵を愛する」この思想がない限り、今の時代のエコーチェンバー化は決して止めることができない。迫害するもののために祈る。これがクリスチャニティ の本質となる。クリスチャンにとっての戦いは、決してこの世における血肉の争いではなく、天にいる悪の諸霊を相手にする霊的な戦いなのだ。

主の御名においてお祈りいたします。アーメン!

「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」
‭‭エフェソの信徒への手紙‬ ‭6:12‬ ‭新共同訳‬‬

「だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」
‭‭エフェソの信徒への手紙‬ ‭6:13-18‬ ‭新共同訳‬‬

「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭11:25-30‬ ‭新共同訳‬‬
https://www.bible.com/1819/mat.11.25-30.新共同訳

これからのマンデラエフェクトについて

僕自身の身に、マンデラエフェクトが起こり始めたのは2017年3月27日から。そして、その時から一貫してきていたメッセージは2019年前半に「死者が蘇る地球」になるということだった。このことについての記事を振り返って整理してみた。そしてこのメッセージ通りに、マンデラエフェクトを認識できる人がtwitter上でも、指数関数の爆発的に増え始めている。

下記の記事を書いていた時は、僕はグノーシス主義を中心とした神智学研究をしていた西洋占星術師だった。そのため、使っている用語は難解なものだ。

しかしその後僕は聖書の御言葉と出会ったので、こうした難解な用語を一切必要とせずに、全く同じことを御言葉だけで説明ができる(そればかりでなく、それ以上の様々な真理をそこに発見できる/ことに神智学は人格主義に基づかないので知性偏重型であり、それこそがサタンの特徴だ)ことに気が付き、これまでの12年のキャリアのすべてを捨てて、クリスチャンになった。正直、僕は、福音を伝えるためなら、生命を捨ててもいいと思っている。それゆえ、本名で活動しているし、占い師だった過去も隠さない。それくらい一人でも多く、失われた魂が、永遠の生命を受けてほしい。イエス様の十字架しか救いがないということを、これからも全生命力をかけて証していきたいと思う。

主は、時間を被造物としてお作りになった方だから、過去をも変えられる。そしてそのことはすでにダニエル書や、ヨハネの黙示録の中でも預言されていること。決して、自分の意識でパラレルワールドを飛んでいるわけではなく(もしそうであるならばなぜ目の前の現実を意のままにしないのか?)、「すべての人の目が彼を仰ぎ見る(ヨハネの黙示録1章7節)」の御言葉通り、主が偉大な御業をなさっているということを繰り返し述べておきたい。

そもそもニューエイジ(スピリチャル)の中で流行ったアセンションという言葉も、もともとはキリスト教神学のイエス様が復活した40日後に天に上った、昇天(アセンション)からきている概念。つまりもともと聖書にある考え方に過ぎない。まして終末思想自体がそもそも聖書の世界からきているもの。

ニューエイジ文化でもてはやされ、最近は下品な商業主義、単なる金儲けに成り下がってしまっている、アチューンメント、チャネリング、ライトランゲージ、ヒーリングも、それぞれ、聖霊のバプテスマ、預言、異言、神癒という聖書の概念からの盗用でしかない。こうしたことは1冊の聖書を読めば、すべてそこに書いているのだ。なぜそれでも読まれないのか?それは、ニューエイジ文化の背景にサタンや悪霊がいるからに他ならないのだ。そうしたこの世の諸霊が、神の御言葉である聖書を読ませないようにしているのだ。

だからこそ、マンデラエフェクトを体験し始めた方は、まずは聖書を開き、読み始めてほしい。聖書とは、サタンや悪霊と戦うための御言葉という剣なのだ。

「また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」

エフェソの信徒への手紙 6:17 新共同訳

あくまでニューエイジは、聖書を無理くり汎神論に当てはめようとして生まれた疑似宗教、もしくはシンクレティズム宗教(混合宗教)に過ぎず、聖書を読む文化がない日本人の間の中で流行っている偏った思想だということに、私たち日本人は気づかなければならない。このあたりは400年前に檀家制度を敷いて、聖書の御言葉を締め出した、鎖国の弊害だともいえる。むろんその当時はそうせざるを得なかったし、実際に聖書の御言葉のなかでも、終末の世に東の島々の民が主の御名を讃えると預言されている通り、それ自体も含めて主の計画の中にあるともいえる。

父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

2017年11月27日の時点ですでに2019年から物質次元が消失し、半身半霊化するというメッセージが来ていた。
2017年12月には、マンデラエフェクトが起こる理由が、CERNなどではなく、霊的な覚醒、主にブッディ層の覚醒によって起こることが分かっていた。
2018年7月には、マンデラエフェクトの背景にある集合意識の変化の、さらにその奥には、「個」の意識振動数があることを発見した。これこそ今考えてみれば、「主」であり「イエスキリスト」ご自身であった。
2019年中盤(すなわち6月から9月)に、意識シフトが早いライトワーカにおいては、死を超越し、永遠の生命を得ていることに気づくフェーズがやってくるとメッセージがあった。これはまさに今進行中のテーマである。
2019年前半には死者が蘇る地球になるということを言及している。
2019年前半にはこの世がデヴァチャン化(天国化)し、他力による第四イニシエーション(これはすなわちイエス様の十字架の磔による贖いを信じること)によって、デヴァチャン振動数が完成する2019年後半(つまり7月から)マンデラエフェクトの数が「極端に増えていく」ということになるだろう、というメッセージ通りのことが現在起きてきている。7月以降2年半の沈黙を破って、一気にマンデラエフェクトの体験談がtwitter上でバズりはじめているし、来月にはさらに指数関数の爆発的なグラフを描くと思う。
2019年の正月の挨拶が、「今年はマンデラエフェクトの年になる」というメッセージだった。そんな正月の挨拶、普通ないと思うが(笑)
マンデラエフェクトは今は地図やネット上の情報で気づく人が増えているが、これからはもっと日常的な事象で増えていくよというメッセージ。地図ばかりでなく、家の近所や、部屋の中ですら、主は、イエス様を受け入れて救われるまでなんども扉をたたいてくださる。それは一人でも多く、福音によって、救われてほしいからなのである。アーメン。
2017年3月27日の巨大隕石の衝突による死後の世界化(これはその後、聖書で幾度となく言及されている終末預言だった)や、死者の復活という概念について言及している。

イエス様というのは、本当に深く一人一人を愛しておられ、結局のところ福音を知らずにいまだ失われていく魂が多い日本人のことも、やはり深く愛しておられる。日本人には日本人の役割があって、今の時代だからこそ、本当の意味で主イエスキリストを、自らの救い主として、1:1の関係性の中で受け入れられる時代が来ているといえる。そこに気づいてほしいからこそ、主は、途方もない御業で、時空を超える奇跡を起こし、まるでヘレニズムの時代の初代教会で行われたような主の御業や徴を、私たちの目の前で起こし始めている。そうでもなければ、私たちは、宇宙という被造物が神であると思い込むだろうし、頭の中で考えた神を崇拝することになるだろう。しかし私たちは主の御名を唱えなければならない。

偉大な奇跡ゆえに、当時のローマ人をはじめとした異邦人たち(非ユダヤ人)は、汎神論を捨てて、聖書の主、つまり一神教を受け入れた。その当時と同様の奇跡を主イエスキリストは示し、私たち日本人の汎神論的な世界から、本当の真理であるところの、創造主は現にましますということを、明確に啓示される時代に入ったといえるのだ。

「彼らは声をあげ、主の威光を喜び歌い 海から叫び声をあげる。 それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び 海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。 地の果てから、歌声が聞こえる。 「主に従う人に誉れあれ」と。 」

イザヤ書 24:14-16 新共同訳

マンデラエフェクトが2年半の沈黙の後にいよいよバズり始める

高次意識(その後、その声が、主だと分かる)のメッセージから、数週間後、2017年3月27日から始まったマンデラエフェクト。不思議なことに、この話題を様々な人に話したが、伝わらないか、もしくは伝わったとしても、まるで夢の中の会話のように次の瞬間には別の話題になってしまうという体験をおよそ2年半経験した。そして、マンデラエフェクトが起こった当初から2019年前半に「死者が蘇る地球」になるというメッセージを受け取っていた。これがまさか自分がクリスチャンになる(クリスチャンは十字架を信じることで、永遠の生命を得る)という意味だとは思ってもみなかった。2年半不思議なことに、誰に話しても、マンデラエフェクトについてスルーされていたが、やはりメッセージの通りに、2019年6月から急速にtwitter上で、マンデラエフェクトについて言及される方々が増えてきた。そもそも、いくら周囲に伝えても、ネット上でも書いても何の反応もなかった2年半と打って変わって、今マンデラエフェクトというワードが指数関数的にバズりはじめている。つまり、明らかに「目覚める人」が増えてきているということ。僕自身も、こうした現象の背景に、聖書の主、つまるところイエス様がいらっしゃるという結論に至るまで、2年半かかった。昨年の12月はまさかそんなことになろうとは思いもしなかった。しかし、様々な東西古今の文献を研究し、聖書は真理であるということを確信した。当時の僕がいかに混乱していたかは、半年間ブログをかけなかった(10年以上毎週続けていたメルマガすら、やはり半年間書けなかった)こと、そして、沈黙を破った半年後のブログ記事を読んで、察していただけると思う。マンデラエフェクトを体験し始めた2017年3月からは、あまりにも衝撃的な出来事だったゆえに、半年間とてもじゃないが、公にできなかった。頭が狂ったと思われたくないからだ。しかし最終的に、そうかこれは「壮大なギャグなんだ!」という結論に至り、「ギャグブロガー」として書こうという結論になって、ようやく文章化できたという思い出がある。

https://church360vr.com/2017/07/

今マンデラエフェクトという言葉がtwitter上でバズりはじめていて、当時の僕がそうであったように混乱されている方も多い。僕の場合、事前に「北海道の輪郭を見ていなさい」という不思議なメッセージがあったから、ある程度心の準備はできていたが、通常はそうしたこともないと思うので、現実だけを見ればものすごく混乱すると思う。しかし、そんな方にこそ、ぜひ聖書を開いてほしい。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書を読んでみてほしい。聖書の中のあらゆる聖句から、終末の世における「マンデラエフェクト」についての預言と思われる個所がたくさんあるが、何よりも大事なことは、聖書の「目を覚ましていなさい」という御言葉通り、今自分の目の前に起きてきているマンデラエフェクトという不思議な徴を受け止めつつも、「汝の敵を愛せ」というイエス様の御言葉のように、「無償の愛」に生きることが大事だということは強調してもしきれない。終末の世は、人々の愛が冷める時。だからこそ、互いに愛し合うことが大事だし、何よりもそのためには、自分が御子イエスキリストの十字架によって、原罪が贖(あがな)われるということを知ることが大切。自分自身がマンデラエフェクトを経験し、ニューエイジャー/占い師からクリスチャンへと回心するまでの2年半の経験があったからこそ、これは本当に繰り返し伝えていきたい真実だ。父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン!

福音とイエス様を愛するネットワーク

イエス様について知っていただける場が周囲に確実に増えてきた。わずか1ヶ月の間に聖霊の導きのもと、奇跡的なご縁をいただき、求めれば、救われやすい共同体ができた。福音のネットワークしか、こうしたことは本当に難しいということを、ニューエイジの世界で12年やってきたからこそ実感する。一冊の聖書を通じて、深い信頼関係が醸成されていく共同体。本当に素晴らしいなと思う。これからの時代に真に必要なものだとしみじみと感じる。

イエス様との出会いとマンデラエフェクトの体験

主の召し方って、やはり義人ではなく、罪人を誘う傾向がある。マンデラエフェクトも、めちゃくちゃ熱心なクリスチャンじゃなくて、クリスチャンを迫害していた元パリサイ人だったパウロにそうなさったように、だいたいグレーゾーンの人に、明確な主の徴を示されているようだ。
それゆえ、僕のような占い師/ニューエイジャーだった、聖書的には重大な罪人であっても、回心して、主のためにすべてを捨てて付き従う僕(しもべ)に造り替えてくださる。
マンデラエフェクトの気づく人が、割と、どこかでイエス様の十字架を知って、信じていながらも、既存の地上の教会で傷ついたり、人間特有の愚かさを見て、道義的に反発心を感じられている方が多い。一度はイエス様の十字架を信じて、しかしその後、信仰から離れているようなギリギリの信仰を持つ方に多くマンデラエフェクトという徴が出てきているのは、どうも今もなお、主は、一人でも多く主の御心によって、自らの御子の血潮によって、救われてほしいという強い願いを感じざるを得ない。
確かに、マンデラエフェクトのような徴が、熱心な信仰を持つクリスチャンに徴されたら、確実にエリート主義や選民意識に陥るだろうし、そうはなさらないところが、主のご計画の壮大さなんだと思う。
「後のものが先になる」というのはまさにこのことだなと感じる…。主の御名においてお祈りいたします。アーメン。

「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」」
マタイによる福音書 20:16 新共同訳

クリスチャンアファメーション

ニューエイジ 的な願望実現のアファメーションも、「主の御心ならば」と添えれば、砕かれた心になるし、信仰の喜びの内側にいられる。「私は神」は、「私は神の子供」といえば、謙遜な心であれる。数ミリの違いだが、全く違う人生になる信仰のコツだ。

時の終わりとマンデラエフェクト

創造主とは時間を創造した方であり、それは同時に、時間を超越したお方であるということ。キリスト教神学において、創造主(父なる神)と、イエスキリスト(御子)と、聖霊は、三位一体の神。聖書の中でははっきりと「時の終わり」について啓示がある。

今おられ、かつておられ、やがてくる方。

ヨハネの黙示録‬ ‭1:8‬

わたしはアルファであり、オメガである。

ヨハネの黙示録‬ ‭1:8‬

これはまさにマンデラエフェクトが示すように、時間という被造物を造った、人格を持った創造主を示しており、無論、三位一体の一つの位格として、主イエスキリストのことを指している。

「すべての人の目が彼を仰ぎ見る」という御言葉通り、多くの人がまさにこの時間という被造物が創造主の御手によって造られた被造物であるという徴を、マンデラエフェクトを通じて、体験し始めていることになる。

日本的な信仰形態である汎神論や、科学がその背景としている理神論においては、どうしても「創造主」というフレームが理論上存在し得ないため、「パラレルワールド」という形で表現せざるを得ない。

また汎神論をベースにしたニューエイジ 的な信仰においては、「自分の意識の振動数が変わったことで、別の歴史を持つタイムラインに移動した」というように理解する。

しかし、実際のところ今歴史上起きてきているのは、天動説から地動説へのコペルニクス転換のような形で、汎神論から、唯一神論への移行が起きつつあるということではないだろうか。

理論上、計算上は、天動説も地動説もいずれでも矛盾は生じない。しかしその背景にある思想や信仰は全く別のものである。

すべての人が彼を仰ぎ見る

ヨハネの黙示録‬ ‭1:7

確かに多くの人がマンデラエフェクトを体験し始めているし、数学的に考えれば、ある一定の閾値を超えたこれからは、その体験者数は指数関数的に増加していくはずなので、来月の中頃にはさらに多くの人々が気づき始めるのではないかと思う。というのも、2017年3月に「北海道の形を見ていなさい」というメッセージを受け取った後、数週間後に、北海道が見る見るうちに大きくなっていった。そして、次々とマンデラエフェクトが起こり始めた。こうした話をどれだけ真剣に人に伝えても、相手にされなかった。約2年半の間は全くと言っていいほどこの話は通じなかった。あまりに仰天の体験に、半年は、メルマガもブログもかけなかった。マンデラエフェクトを初めて体験して後、半年後のブログを読んでいただければ、いかに僕が混乱していたかがわかると思う。(当時は占い師/ニューエイジャー)

実際に主からは、「2019年前半に死者が蘇る地球になる」というメッセージを一貫して伝えてくださっていたからこそ、忍耐強く、いつかこの2年半続けてきた研究が、誰かの役に立つ、救いになるはずだという思いを持って、孤独の中でも自分を保つことができた。マンデラエフェクトを体験し始めている方は、考えてみてほしい。この体験がだれにも理解されず、2年半も、耐え抜いて、研究してきた孤独を。いつか誰かの役に立つはずだという愛と希望がなければ、難しかった。

しかしようやく数学的に言うと「指数関数爆発」についに差し掛かってきた。主からの2019年前半に「死者が蘇る地球になる」というメッセージの通りに、やはり2019年6月以降、明らかにtwitter上でのマンデラエフェクトの言及が増えてきたのだ。そしてその数は、日に日に増えつつある。わずか3か月の間の沸騰したお湯のような急激な変化は、この2年半の無音、無風状態だった様子と比べて大違いだ。

また、 ちょうど僕自身が洗礼を受けたのも、2019年6月だった。受洗して気づいたが「死者が蘇る地球になる」とは、まさに死と復活を象徴するバプテスマ(洗礼)のことでもあったのだ。

オーストラリア大陸を動かしたのは、自分の意識か?それとも、創造主か? それともCERNなのか?

果たしてどういったパラダイムが、人を謙遜な心にさせるのだろうか?

ここに僕自身が、占い師やニューエイジャー(いわゆる「スピリチャル」)としての人生を全て捨てて、イエスキリストを「我が主」として受け入れた「クリスチャン」になった理由がある。

もし自分の意識が現実を作るのだとすれば、自分は神だということになる。周りも神となり、それぞれ別々の現実を作るのだから、もはや互いに気にすることは無く、気に入った人とだけ付き合えばよいということになる。価値観の合わない人や出来事に対しては、我関せずの「スルースキル」を身に付ければよいのだろう。しかし、これがそもそも格差社会から階級社会へと移行しつつある「社会的無関心」によこたわる思想ではないだろうか?富める者は富み、貧しきものは貧しくなる?それで本当にいいのだろうか?いや、いいわけがない。

しかし聖書は、そうではなく、自分を造った創造主がいると教える。そして忍耐強く、常に深い愛を持って見守っていてくださる。ただただ哀れみの心を持って、一人でも多く救われるために、2000年も待っていてくださっている。日々の私たちを見守っていてくださる。そして、創造主の御子であられるイエス様は、「汝の敵を愛せよ」「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい」とおっしゃって、迫害するもののために祈り、自らの生命を屠るまで、どんな時でも「非暴力」を守り抜かれ、生き切った。そして、自ら進んで、私たちに「永遠の生命」を与えるために、自ら進んで最も過酷で、唯一無二の「霊的儀式」を執り行った。そして、さらにそこから、創造主が、アダムを造り出したその御業と同じように、自らの肉体を死から生へと再び創造なさった。そして自らが創造主であることを、示された。この途方もない恵みの愛にあずかって、果たして人は傲慢であれるだろうか。

キリスト教は決して、日本人が思ってきたような「宗教」ではない。あくまで最初から最後まで、イエス様との「個人的な関係性」にこそ信仰の本質がある。イエス様は今も生きておられて、私たちが想像もしえないほどの大きな愛で常に見守っていてくださっているのだ。感情的に憎いのであれば、キリスト教という人間の作った組織は、気のすむまでいくら罵倒してもいいと思う。イエス様ご自身はそんなことは気になさらない。ただただ「汝の敵を愛せ」「自らを憎み、迫害するもののために、祈れ」とおっしゃる方なのだ。そのイエス様の愛に救われたからこそ、自らも「汝の敵を愛すること」「自らを憎み、迫害するもののために、祈ること」を決意した人々が、真のクリスチャンなのだ。

パラダイムが変わることで、今まで見えていなかった真実が見え始める。

「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

‭‭ヨハネの黙示録‬ ‭1:7-8‬ ‭新共同訳‬‬

求めよ、さらば与えられん。

聖書自体がイエス様の証の書なわけで、肝心のイエス様と出会ってなければ(あるいは求めてなければ)、そりゃ御言葉は入ってこないし、勉強すべき組織宗教の経典と思って挫折するのも無理はないね。パウロもイエス様と出会って回心しているし、そういえばニューエイジャー の旗手であったドリーンバーチュー もイエス様と出会って、聖書を読み始めて回心した。ニューエイジ 的な意味でアセンデッドマスターの一人としてイエス様を引用はしていたけれど、決して本当の意味でイエス様と出会ってはいなかった。確かに人は窮地に立たされた時に初めてイエス様を求めるのだと思う。求めよさらば与えられんというのは、イエス様ご自身を求めるということなのだと思う。

「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」」
‭‭ルカによる福音書‬ ‭11:9-13‬ ‭新共同訳‬‬

【ベツレヘムの星便り】367号    聖書におけるコミュニティ



◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)


 2019/9/8                                 367号


こんにちは、杉本譲治(旧ユピテルジョージ)です。

今日は聖書における、コミュニティ論についてお話します。

聖書の世界では、イエス様を自分の救い主として受け入れた段階で、
霊的な意味で、クリスチャンの共同体に迎え入れられると考えます。

つまり、イエス様が、私たちの罪のために十字架の上で死なれて、
墓に葬られ、3日後に復活したということを信じた段階で、
心の内側に聖霊が内住し、その聖霊の力によって、
霊的な意味で、クリスチャンの共同体へと迎え入れられます。

この共同体は、「目に見えない教会」や「普遍的教会」とも呼ばれ、
教派の違いを超えて、世界にただ一つだけの
イエス様を信じる全ての信徒たちが所属する教会と考えます。

しばしば誤解されがちなのは、聖書の世界の中における教会という言葉は、
ギリシア語で、エクレシアと呼ぶのですが、
これは決して「建物の教会」を意味しているのではなく、
「会衆」や「人の群れ」という意味を持っているということ。
本来は、建物ではなく、イエス様を信じたコミュニティ(人の集い)
のことを指して、教会と呼ぶのです。

教会というと、どうしても建物の教会をイメージしてしまうので、
私は、エクレシアや、ミニストリーといったほうが
日本語的には分かりやすいかなとも思っています。

私も、毎週土曜日に国際弁護士の佐々木満男先生が牧されている
ホテルグランドハイアットのレストランでの集い(モーニングブレイクファースト)
に参加していますが、これも聖書的な意味で言うところの立派な「教会」になります。
礼拝堂や建物がなくても、信徒が集まるとそこに教会は成立するのです。

特定の宗派に所属しないこうした群れのことを、超教派と呼んだり、
特に日本では、内村鑑三が築いた伝統の上に、無教会派と呼んだりも
します。

僕自身がなぜ、敢えてこうした無教会派的な集いにこだわっているかというのは、
わりと日本人にとって教会=建物と思われることが多く、
ある種の敷居の高さを感じることが多い(僕自身もそう感じていました)
ということが理由に挙げられます。

本来は、もっと気軽に、聖書を読んで、イエス様を信じた人々の集い
(あるいは聖書やイエス様に興味がある人も気軽に参加できる場)
というのが、日本にもっとたくさんあればいいのになという思いで、
そういう価値観を共有できる方を探したところ、あっという間に
その考え方を共有できる方々とお会いできるようになったわけです。
これもまた主の恵みだなと感じます。

さて、こうしたコミュニティがどのような御言葉に基づいて形成されている
のかを知る上で重要な箇所は、主に、「コリントの信徒への手紙」と
「エフェソの信徒への手紙」の2つの書簡になります。

今日はコリントの信徒への手紙の中から、聖書が考える
コミュニティ形成についての、重要な箇所をご紹介します。



▼コリントの信徒への手紙一 12章18節~27節 新共同訳


「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょ
う。 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。

目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって
「お前たちは要らない」とも言えません。

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、も
っと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。

見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分
をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。

それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。 一つの
部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべ
ての部分が共に喜ぶのです。

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」


聖書では、福音の三要素を信じた人は、イエス様の身体の一部になると、
伝えています。そして、人によってそれぞれが持っている賜物(才能)を
活かして、互いに支えあっていくことの大切さをみ言葉を通じて伝えています。

クリスチャンのコミュニティは非常に特殊な側面があり、
それはそもそもすべての人がひとつの同じ神を信じており、
また教派の違いに関わらず、同じ聖書の御言葉の上に成り立っているので、
初対面の人でも、すぐにまるで「家族のように」親密になれるという特徴があります。

こうした一瞬でラポールが築かれる、親密さというのは、
イエス様が宣教なさったヘレニズムの時代には、
様々な文化や国々が交じり合った、いわゆる国際化が進んだ時代において、
信頼を醸成するうえで非常に重要な役割を果たしました。

2000年経った今でも、この特徴は引き継がれていて、
聖書を学ぶという焦点で、クリスチャンの集いに参加すると、
そもそも信じている価値観が同じものなので、信頼関係を形成し、
親しくなるスピ―ドが信じられないくらい早くなります。

しかも、日本だけでなく、海を超えて、世界各国の兄弟姉妹との
関係性も、広がるのです。世界中に20億人以上いますからね。

SNSは主に、情報を共有する中で、「友達の友達は、友達である」という
価値観に基づいて発達してきましたが、今はむしろエコーチェンバー化
に見られるように、むしろ自分と価値観が異なる人との差がどんどん広がり、
人々の意識は、繋がるばかりか、分断と孤独へと進んでいる側面が、
近年とても大きな問題になってきています。
また、その背景には、「自己実現」をベースとしたニューエイジ的な思想が、
ベースに存在しています。

聖書の世界のコミュニティ論はこれとは異質なもので、
聖書は「知識」ではなく「信仰」を共有するという構造をとります。

つまり三位一体の神(父と子と聖霊)と、聖書の御言葉という
ゆるぎない信仰の中心を、文化や人種、時代すら超えても、
共有できるような構造を持っているのです。

そして、そうして形成されるコミュニティも、全て聖書の御言葉によって
成り立っているので、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要
なのです。」というようなメッセージのように、私たちにとって本当に大事な
「無償の愛」という概念で成り立つ関係性が豊かに形成されるように
なっているのです。

私はこれからの時代は、エコーチェンバー化の弊害などにみられるように、
SNSなどで「知」の共有が重んじられた流れが終焉していき、
聖書で語られるような「信仰」の共有こそ、
本当に必要な価値になっていくだろうと考えています。
聖書は、「汝の敵を愛せよ」というしっかりとした芯があるので、
エコーチェンバー化しえないという側面があるのです。

それゆえ、今年に入ってから、本当に価値ある情報をお伝えしていきたいと
いう思いに基づいて、事業や提供するサービスの構造も
聖書の御言葉に基づいたものへと、大きく変化させていっているのです。

12年間歩んできた占星術師としての道のりを終えて、
6月からクリスチャンとして出発し、今月で4ヵ月目になりますが、
着々と、新しい時代に必要な本当に価値ある考え方を、
しっかりと提供できる基盤を、整えています。

わずか3ヵ月の間に、僕自身の身においても、
この世界を造った創造主に祈った通りの形で、
僕の身の周りでもこうしたクリスチャンのつながりが
奇跡的な規模で、豊かに広がり始めていること自体が、
聖書の御言葉と、主イエスキリストが、
いまも生きておられることを証していると日々実感します。
3か月前はクリスチャンの知り合いは、ほとんどいませんでしたからね。
それが今や、たくさんの魅力的なクリスチャンの仲間に恵まれています。

土曜日の集いも、とても温かいコミュニティなので、
気兼ねなく参加してみてくださいね。

今週もあなたにとって素晴らしい一週間となりますように。
父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。



【クリスチャンの集い】土曜日パワーブレイクファーストのお知らせ


8月より、毎週土曜日の朝9時に、東京六本木のホテルグランドハイアットの
フレンチキッチンにて開かれている、いつもお世話になっているクリスチャンである
国際弁護士の佐々木満男先生や、作家で、牧師のジョセフケン牧師をはじめとした
熱き日本のリバイバリストたちに会って親交を深められる朝食会
(パワーブレークファースト)に、毎週参加させていただくことになりました。

本来は、ビジネスマンに向けた福音伝道を趣旨として創立された
INTERNATIONAL VIP CLUBの活動の一環として、
第1・3・5土曜日の隔週での開催で、これまでも16年間開催されてきた
佐々木満男先生が主催する朝食会です。

先日、ジョセフケン先生とお話しているときに、聖霊の注ぎによって意気投合し、
いつもは開催していなかった第2,4土曜日も、ケン先生と私は出席し
毎週必ず集い、皆で祈れるようにしましょう!ということになりました。
お申込み方法等は、詳しくはこちらからご覧ください。

https://church360vr.com/powerbreakfast


【パーソナルミニストリー】聖書の御言葉を通じて、自分の心を「無償の愛」で満たす


人生の困難に行き当たった時、判断に悩む時、あなたの手元に一冊の聖書と、主イエスキリストへの信仰があれば、常にあなたの道のりを、明るく照らしてくれます。

人生はいいことばかりではありません。
しかし、どんな時でも救い主イエスキリストは、あなたのことを見守り、
愛しておられます。

このパーソナルミニストリーでは、
聖書的な人間理解、主イエスキリストの信仰をベースとしながら、
時間をたっぷりととったマンツーマンのカウンセリングをご提供します。

「心の貧しい人々(謙遜な人々)は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口
を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
(マタイによる福音書 5:3-12 より 新共同訳 )

▼時間の目安 60分から90分程度
▼料金 本カウンセリングは、キリスト教の献身の精神に基づいた活動とな
るため、特定の料金は定めておりません。あなたがふさわしいと感じられる、
主への感謝の気持ちを込めた献金という形でお納めくださいますようお願い
いたします。

―――惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず
豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。 各自、不承不承ではなく、強制
されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人
を神は愛してくださるからです。
 (コリントの信徒への手紙二 9:6-7 より 新共同訳)

▼スケジュールの関係上、月10人までのお受付となります。何卒、ご理解、ご
了承ください。
▼日時 お申し込み後に、ご希望の日時を調整いたします。
▼場所は、表参道(東京都)のサロンとなります。ご予約後に住所をお伝えい
たします。
▼ご遠方の方は、スカイプやLINE、ZOOM等のビデオ通話を使った形にてもご提
供いたします。

▼ご予約はこちらからどうぞ
https://church360vr.com/personal_ministry



メールマガジン【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便
り)
発行者:杉本譲治


▽今週もあなたにとって素敵な1週間になりますように。
父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。

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自己啓発と自己投資

ニューエイジやニューソート、あるいは自己啓発における「自己投資」という概念も、じつはよくよく考えるとあんまり根拠はなくて、もともとはクリスチャニティの什一献金からきている考え方。つまり自己投資という概念自体もある種の信仰の一つなんだよね。ただ面白いのは、実際に自己投資をしっかりとしている人でないと、成功はしない。面白いことに、同じような物事を学んでいても、やはりそこにかけている自己投資額の違いよって、身についているかどうかも違うということは本当によく観察される事実。自己投資という概念も、本質的な部分では、信仰と深い関わり合いがあるのだといえる。

献金の本質

キリスト教の献金の本質って、ファンドっていう部分があるんだよな。どこかの教会のお金というよりも、そもそも本質はキリストの身体全体に流れているお金の量を増やさないといけないということ。働きを加速させるためのお金。そういう意味でも、どちらかというと本質的には、ファンドというイメージが近い。

結局たくさん真面目に献金している人って、神様がちゃんと覚えているし、実際エクレシアの中でも信頼を得て、大きな働きを成していくことが多いと思う。つまりクリスチャニティにおける献金の本質って、人本主義なんだよな。結局そういう人には豊かな人間関係が返ってくるわけで、そりゃ御言葉通り蒔かれた種はよい畑で育つことで100倍になるんだと思う。

ニューエイジでは自己投資だが、キリスト教における献金って、第一義に主への投資であり、第二義に他者への投資なんだよな。そもそも最初から自分は主の恵みによって無償で救われているわけで、まず主を愛し、次に隣人を愛するという御言葉通り、お金の流れもそうなっている。

献金をちゃんとしていたら、その界隈はお金のめぐりが良くなって、結果人が育ったり、救われる人が増える。そうすればおのずと豊かな関係性が広がるわけで。良い働きをしているグループや人にはしっかりと献金していくということは、結果的に必ず良い人間関係を周囲にもたらしていくことになると思う。こういう論理で、キリスト教の献金というものは成り立っているのだと思う。

キリストの身体

主の計画は、キリストの身体(つまりエクレシア/イエス様を主として受け入れた信徒の集合体)全てをお使いになられるので、一人の計画ではとてもじゃないけれど想像つかないようなことを成される。すごいことは自分の思いというものは、祈りを通じて、全世界の信徒とつながっているということであり、それも神経回路をめぐる電気信号のように、聖霊の働きで一瞬で通脈するようになっている。聖霊の注ぎによって動き始めるということは、ある種のバタフライ効果のような側面があって、自分の働きが全世界のクリスチャンにそのまま反映されていくという側面が大いにある。これはニューエイジとは全く異なる原理で、世界的なリバイバルが起きつつあるのも、まさにこうした大規模なキリストの身体という原理があるからに他ならない。

献金の本質というのも、ようはこのキリストの身体に血液を流しましょうということ。どこが入り口であっても、結局イエス様にたどり着く。しっかり流せば、こうした意識共同体から、大いなる恵みがすぐに届くのは当然のこと。

世の中がついてくるまでは、「頭がおかしい」と言われようが、証を続けるしかないね。

世の中がついてくるまでは、言い続けるしかないね。
占い師だった時もそうだったけど、最初は、「あいつ頭おかしい」から始まり、数年たって次第に周りに話を聞いてくれる人が現れ始め、5~6年したら同じようなことを周りに言い始める人が増えてきて、 10年もしたら多くの人が親しむ日本の文化になった。


クリスチャンとして信仰告白してから、割と今は「あいつ頭おかしくなった」という反応がほとんどだし、親しい間柄だったのに、おそらくもともとイラク戦争などのネガティブなニュースなどを見てキリスト教が嫌いなんだろうが、あからさまにあいつは「殺人集団のカルト宗教にハマった」くらいの勢いで、ものすごい偏見を抱いていて、個人的な縁を切ったり、何もメッセージすらしていないのに投稿を見てブロックしたり、無視したりと、まぁ、何かを新しく始めるということや、勇気をもって一歩を踏み出すということは、そんなもんだよなと思う。まぁ、面と向かって「お前頭おかしい」とはいえないからね(笑)。

これは何も今始まったことではなく、そもそもニューエイジャーとしてスタートした時もそうだった。占い師になるといった段階でも、あいつはついにカルト教の教祖になろうとしているだとか、色々言われたものだ。それが今や少なくとも占い師やセラピストという職業に関して、日本でそんなこと誰も思わない時代になった。SNSが台頭してからなんとなく副業としてやってみようという気軽なノリで始めるニューエイジャーは、そういう苦労を知らないんだろうなと思う…。今気軽にニューエイジャーとして、仕事をするにはそういう先人たちの苦労の土台があるのよ。本当に。


誰も取り組んでいないような、何かを始める時には、必ず迫害が伴うもの。


そんなことは、僕も重々、承知なわけで、それでもなお、そうして迫害したり、無視したり、敵視したりする人のためにも、主イエスキリストは自らを十字架にかけて自らの生命を屠った。ニューエイジ文化でもそうだったように、いつか必ずこの思いは届くと信じている。安易なスピリチャリズムや、この世の惑いごとに振り回されることなく、真理を大切にして生きていくことの大切さを、自らの身を持って示していきたいと思う。
クリスチャンは、迫害する人を決して恨んだりはしない。愛を持って、どうか福音を知って救われてほしいと、祈るばかりだ。アーメン。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
ヨハネによる福音書 3:16 新共同訳

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」
ヨハネによる福音書 3:17 新共同訳

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
‭‭ローマの信徒への手紙‬ ‭1:16‬ ‭新共同訳‬‬

「自分が自分の味方になろう」「自分を愛そう」という甘い言葉で語られる「自己義認」の罠

「主イエスの十字架の血で、私は赦され、御神と和解をして平安を得ました。」
これが刑罰代償説(充足説)の本質。主イエスキリストの十字架の贖いを信じ、受け入れ、悔い改めて、神の義の怒りから解放されることがとても大事。決して、自分の内側にある罪の意識は、十字架以外で贖われることは無い。
ネットに蔓延しているポップ心理学化したニューエイジャー/自称スピリチャリストの論説で「自分が自分の味方になろう」「自分を愛そう」という形で、「自己義認」を勧める人が非常に多いが、これは本当に危険な思想だ。イエス様の十字架以外の方法で決して人間の現在は贖われることは無い。この真実は強調してもしすぎることは無いものだ。
主の御名においてお祈りいたします。アーメン。

進化論の否定

聖書の世界では、進化論は否定されおり(というよりもそもそも進化論自体が聖書を否定するために生まれたが強い)、まぁこれはマンデラエフェクトなどを見ればわかる通り、確かに直線時間は神の被造物に過ぎず、その視点においても、聖書のロジックは、進化論を否定しうるだけの強度を持っている。まぁ、このことよりもむしろ大事なことは、進化論が、実質的な進化論の枠組みを超えて、神智学の中で、「霊的進化論」という形で取り入れられたことは非常に重要な側面があるといえる。宗教的文化がダーウィンの「霊的進化論」を取り入れたことによって、アセンションなどをはじめとした新しいスピリチュアリズムの文脈が登場した。「霊的な淘汰とそれによる人類進化」という概念も、もともとは聖書的な概念ではなく、あくまでダーウィンの進化論から派生した考え方。スピリチュアリズムにおけるアセンションと、聖書的な携挙という概念の大きな違いを理解するうえでは、こうした「進化論」という背景もしっかりと見つめる必要があると思う。

自己啓発の文脈においても、わりとこのニューエイジ独特の「霊的進化論」は幅を利かせているように思う。こうしたところからも、サタンの介入はあるのだと思う。

占いがなぜ非聖書的か

そもそもの前提として、クリスチャンになって占い師をやめた理由があまり理解されていないが、聖書では明確に占い師やニューエイジ的営みをすることは固く禁止されていて、旧約聖書の時代には死刑に値する非常に重大な罪だった。西洋社会では常識。それを知った上で海外の占星術家などはあえてやっているが、日本ではこうした常識を知っている人が非常に少ない。

「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、 呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。 これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。 あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。」
‭‭申命記‬ ‭18:10-13‬ ‭新共同訳‬‬

「預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、 そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、 その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。 あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。 その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」
‭‭申命記‬ ‭13:2-6‬ ‭新共同訳