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GAFAの思想とエコーチェンバー化

やはりGAFAの思想の背景にあるエコーチェンバー化傾向って、今後も社会の非常に重要な課題になるとひしひしと感じる。個人の分断がものすごいスピードで広がり始めているし、これ自体はルネッサンスが起きた過去にも常に起こっていること。個人主義が台頭していくと必ず道徳的な堕落が起きるというのは世の常。そしてその反動として宗教改革(リバイバル)が起こってくる。
重要なポイントは、GAFAの思想(個人主義)が究極まで台頭していく今、人は果たして孤独に耐えうるのか?と考えた時に、無論心理学的に考えると耐えきれないわけで(必ず人が生きる上でストローク交換が必要となる)、そこの社会的なニーズはますます増えていくのだと思う。良質なストローク交換ができるためには、自分と似たような価値観を持つ人とのストローク交換を重んじるだけでは、エコーチェンバー化していくので、異質な価値観を持っている人とどのように良質なストローク交換をしていくかを考えていく必要がある。唯一この解決策を担っているのが、シンクレティズム宗教が全盛だった時代に、突如として現れた啓示宗教である新約聖書。この御言葉の上に成り立っていくエクレシアこそが、その答えになる。この価値をより多くの人に知って行って欲しいと思う。これを広げる上でも、サタンの攻撃もなかなか強いものなので、エフェソ書の神の武具をしっかりと身につける必要もあるなとしみじみと感じる。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」
‭‭エフェソの信徒への手紙‬ ‭6:10-20‬ ‭新共同訳‬‬

SNS社会におけるエコーチェンバー型群発カルトから身を守るために

つまりエコーチェンバー化の影響で、SNSで怪しいニューエイジ 情報や発信者がものすごい増えているけれど、聖書の知識が少しでもあれば、自信を持って「それって単なる迷信ですよね?」の一言で済む。もし相手が自分がやっていることは科学的で量子力学がどうこう言い始めたら、聖書読んだことありますか?と聞けば良い。読んだことがなければそもそもモグリだし、読んだことがあるといえば明確な嘘になる。少しでも読めばニューエイジ(当時はグノーシス主義やマニ教と言われた)や、技による救い(自己義認)が、全面的に論破されていることを知らないはずがない。こういうやりとりがそもそも日本に全くないわけだな。。聖書の知識とイエスキリストへの信仰さえあれば、このやりとりだけでエコーチェンバー型カルトから身を守れる。

エコーチェンバーのフィルターバブルを乗り越える「献身の愛」

クリスチャンとして生きるということは、イエスのように、相手の(場合によって「汝の敵」の)十字架をいかに背負って、自らを献身的に自らを生贄として主にささげ、相手の罪が福音によって贖れることを願うかというテーマになるんだよな。むろんこのベースには、福音を伝えるという明確な目的があり、ゆえにベースとしての信仰告白(イエスを救い主として受け入れていることを公にすること)はすごく大事なんだよな。信仰告白がないと、相手の罪が赦されるのを願って、相手に捧げる犠牲の愛が、主への生贄にならないからね。つまり、何のために、無償に愛しているのかが伝わらない。こういった信仰告白をしていないことによって起こる失敗は、実にたくさんしてきたなと、振り返って思う。逆に信仰告白をした今は、非常に安心。
こうしたことが、聖書的に見た、無償の愛や犠牲の愛の論理的な根拠になるんだよね。そして、確かにこの論理でないと、結局のところ福音は広がらないのも確か。つまり、福音宣教とは、信仰告白をした後、いかに社会や他人に対して、相手の十字架を背負うかということにかかってくるんだよな。むろん、こうしたことも、自分自身が主イエスキリストによって、救われたという実感があるからこそできること。エコーチェンバー化する時代においては、このクリスチャニティに基づく献身の愛こそが、結局のところ、見えない壁(フィルターバブル)を、一番乗り越えるすべになるんだよな。
ドフトエフスキー「白痴」におけるムイシュキン公爵も、ようは彼は、キリスト者としての自覚がなく、また信仰告白もしなかったため(もともとクリスチャンという設定では無いが)クリスチャン的な犠牲の愛に生きながらも、理解されず、周りを巻き込んで、悲劇を生み出したんだよな。信仰告白をした今となっては、しみじみよくわかる。クリスチャンにとっての信仰告白はとても大事なんだな。

自分の心がエコーチェンバー化しないために

テクノロジーによって、いかにエコーチェンバー化しようとも、自分の心までエコーチェンバー化してしまってはいけない。そうならないためには、「汝の敵を愛せよ」。これに尽きる。心地の良い関係性だけを続けるのではなく、コミュニケーションを重んじ、人間関係を切らないことが大切。忍耐強く対話し、待つ姿勢が大事。自己を開示できない人間の弱さに、サタンや悪霊は付け入ることになる。

エコーチェンバー型群発カルトがもたらす3つの破綻

エコーチェンバー型群発カルトの問題が引き起こす個人的レベルにおける具体的な被害は、3つの破綻だ。経済的破綻、人間関係の破綻、霊的な破綻(悪に陥ること)だ。
イエス様が聖書の中で唯一このように祈りなさいと告げられた「主の祈り」の言葉の中で、「私たちの日ごとの糧をお与えください(経済的安定)」「私たちの罪をお赦しください。私も人を赦します。(人間関係)」「私たちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください(霊的な危機からの守護)」という3つの言葉が内包されるのは、まさにイエス様が私たちの人生にとって何が重要なのかをよくご存じであるということだ。汝の敵を愛するというテーゼから離れて、主の御心から離れると、こうした具体的な破綻を自ら招いてしまうことになる。こうした被害が出ませんように。イエスキリストの御名においてお祈りします。アーメン。
主の祈り
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖〔せい〕とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
[アーメン]
「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」」
マタイによる福音書 11:25-30 新共同訳

二極化とエコーチェンバー

昔、社会が二極化していくと言っていたのは、単純にSNSの登場で論説が、エコーチェンバー化していっていたということだけなんだろうね。正確に表現すると、二極化から始まる多極化だった。そして分断された。なんかすごくシンプル。

エコーチェンバー化する群発カルト

SNS時代に入っても、結局、地道にテキストを書き綴って行くことが大事なんだなと思う。SNSは構造上、どこかで廃れるからね。必ず。
そもそも文節ごとに、社会的評価の対象になっていたら、一貫した文脈のある抽象的な思索や研究は残せないわけで、SNSの文章と結果的に、どちらが残るかというと明らかにしっかりとした思索の上に積み上げられてきた文章だからね。
アメブロや、youtubeなど、ランキング形式で視聴率を稼がないといけないという浅はかな動機で、エコーチェンバー化していくここ5年くらいの言説を見ていて、なんか色々嘆かわしく思う。主がお怒りになるんじゃないかなと。
システムによって実装された一過性のブームは、そのシステムが機能しなくなると一気に崩壊するという、砂上の楼閣だということを知らないといけない。昨今のエコーチェンバー型で群発カルト化するニューエイジ ブームの傾向に、特にこの1年ほど嘆かわしく思っている。ニューエイジ が持つオウム事件の背景にあった本質的な構造と何も変わらない。当時と違うのはSNSが登場したことで論説がゲリラ化、小規模群発化、それゆえに個々の被害が見えにくくなっている、しかし群発化によってむしろ被害は拡大再生産し続けている。つまりエコーチェンバー化する群発カルトの問題に当たっても当事者が泣き寝入りしやすくなっているだけだ。それゆえに、こうした知識を知って、自分の身を守ることはとても大事。
https://www.google.co.jp/amp/s/www.cyzowoman.com/2019/05/post_230997_1.html/amp
https://m.youtube.com/watch?v=GLolOIaD3-E
こういうエコーチェンバー化する群発カルトは今後本当に自衛や教育が必要になると思う。問題はこうした論説の影響を受けた人がさらにゲリラ的に問題を引き起こし拡大していくという部分にあるんだよね。うんざりする。
オウム問題ですら、さまざまな問題が発覚するまでは、テレビ局は視聴率が取れるという理由でよいしょを続けていたからね。学者も新しい宗教の形ということで追従していた側面もある。同じことを繰り返しちゃいけないし、ましてテレビや宗教団体と違って、SNS上で群発カルト化していく現在のエコーチェンバー型の論説は、核となる中心がないため、その中心っぽいものが失われても、また別の中心がすぐに再生産されて、アメーバのように広がっていく。またゲリラ的なので、被害の全体像が把握しにくく、エコーチェンバー化した集団の中では多勢に無勢で泣き寝入りするしかないので、気付いた時には手遅れになっている場合も多い。和をもって尊しとなす日本人は、泣き寝入りして、そっとその集団を離れるくらいしかできないからね。本当にこうした被害に遭っている人は、可哀そうだと思うし、救われてほしいなと思う。
「イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。 子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。 偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。 わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。」
‭‭ヨハネの手紙一‬ ‭4:3-6‬ ‭新共同訳‬‬
「「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:15-20‬ ‭新共同訳‬‬
「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」
‭‭ヨハネの手紙一‬ ‭4:1‬ ‭新共同訳‬‬
「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭24:24‬ ‭新共同訳‬‬
父と子と聖霊の御名において、日本の霊性が正しい方向へと導かれていくことを、心からお祈りします。アーメン。

エコーチェンバー型群発カルト化から身を守るために

そうか、なぜSNSがエコーチェンバー型群発カルトを生み出すかというと、そもそもSNSの設計思想自体が「あなたの友達は友達」というものだからなのか。「汝の敵を愛せよ」ではないんだよな。ある意味、SNSの設計思想そのものを哲学自体から見直す時が今なんだろうね。
なんとなく自分の感覚的に、いつもfacebookの友人は、実際に会った人だけしか繋がらないようにしていたり、SNSだけのバーチャルな人間関係を避け、できるだけリアルな対面のコミュニケーションを常に大切にしようとしてきたことは、ある意味、結果的によかったということなんだな。
ある意味いいね!というシステムも、ますますこうしたエコーチェンバー型群発カルトを生み出す背景にもなっていたんだろうね。維新の党の丸山議員もそうだが、SNS社会ゆえに出てくるこうしたエコーチェンバー型群発カルトの問題って、今後すごい勢いで増えていくんだろうね。トランプ大統領、ブレグジットなども、そうしたSNS特有のトライブ主義という背景があるんだろうと思う。
つまりエコーチェンバー型群発カルトへの個人的なレベルでの対応策は、「汝の敵を愛せよ」という思想になるということだね。相手の対応や言葉にむかついたからといって、ブロックしない、スルーしない、縁を切らない、しっかりと誠実に対話する、コミュニケーション能力を高めるように常に意識するとか、そういう普通に人としてあるべき、常識的なところになるんだと思う。人間関係の断捨離や、スルースキルを身に付けるという言葉が横行する時代だが、こうしたことはしっかりと立ち止まって考えるべきテーマではないだろうか?
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。」
‭‭コリントの信徒への手紙一‬ ‭13:4-9‬ ‭新共同訳‬‬

ヘレニズム化する時代こそ、エコーチェンバー型群発カルトの問題が起こる。

イエスの時代も、ヘレニズムの時代だったがゆえに、様々な文化が混交し、社会的な規範や常識が相対化され、ゆえに頼るべきものが自分しかない(ように思える)個人主義が台頭した時代。まさにグローバル化と情報化が進む今の時代と非常に似た社会背景にある。そのため様々な自分が所属していた文化を相対化するための、ネオプラトニズム主義的、グノーシス主義的な、個人主義的な神秘主義が台頭した時代。グローバル化は、シンクレティズムと、それらを統合するためのグノーシス主義的な神秘思想を引き起こすということが、僕自身の大学の卒業論文のテーマだった。
聖書にもこうしたことは如実に記載されており、特にグノーシス主義的な傾向ゆえに、現在SNS上でしばしばみられるようなサタニックな影響を受けた「エコーチェンバー型群発カルト」が存在していたことが分かる。聖書では「偽預言者」「偽教師」として、表現されている。もちろんこれは滅びの道だということを、知らなければならない。こうしたことはいくらヘレニズム主義的(個人主義的、自由主義的)なセラピーや占星術を学んでも、聖書的な価値観、へブル的価値観を知らない限り、同じ過ちを繰り返すことになる。こうした偽教師から自分の身を守ることはもちろんのこと、また、自分自身がこうした偽教師になり、滅びの道に進まないためにも大切なことだ。
「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」 イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。 そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。 そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭24:3-14‬ ‭新共同訳
「「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:15-20‬ ‭新共同訳‬‬
「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。 イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。 イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。 子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。 偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。 わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。」
ヨハネの手紙一 4:1-6 新共同訳
「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、 しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。 彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。」
ペトロの手紙二 2:1-3 新共同訳
「主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。 特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。」
ペトロの手紙二 2:9-10 新共同訳
「不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。 その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています。」
ペトロの手紙二 2:13-14 新共同訳
「この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。 彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。 その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。 わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。 義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。 ことわざに、/「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」また、/「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです。」
ペトロの手紙二 2:17-22 新共同訳
日本の霊性が、サタニックな影響を受けたエコーチェンバー型群発カルトに惑わされず、人やものといった偶像ではなく、主を礼賛する霊的に正しい方向に向かいますように。主イエス・キリストの御名においてお祈りいたします。アーメン。

エコーチェンバー型群発カルトという形態

戦後の日本の霊性って、ヘブル的な価値観が脱色され、中核が無くなったまま、アメリカ型の資本主義経済およびヘレニズム的自由主義、人間中心主義史観へと移行し、さらにそこにビートルズのイマジンに代表されるニューエイジ 的思想、精神世界ブームがポップカルチャーとして到来し、バブル崩壊後はオウム事件という形でニューエイジ 的なカルト思想が表面化し、その後江原啓之氏に代表されるスピリチャルブームがやってきたという形になっているんだな。で、結局今は、オウム事件の時期と異なり、ニューエイジ 的言説は、教団的な形をとらず、情報空間の中で、SNSなどで広がる中心のない緩やかにつながった小規模かつ群発的(ゲリラ的ともいえる)なカルト(エコーチェンバー現象化するカルト)に移行しつつあるという。一昔前に流行ったカルト的なネットワークビジネスなんかも、こういう形態だと言える。基本的なニューエイジの背景知識や危険性の認知は、こうしたエコーチェンバー型の群発的なカルト的思想から自分の身を守るためにも、今後非常に重要なものになると思う。一言で言うと、カルト的なニューエイジの今の形態は、エコーチェンバー型群発カルトといえるかな。小規模群発型なので被害が見えにくい。身を守るためにも、聖書を通じてへブル的価値観を学び、人やものを神とする偶像崇拝を避けるべきだね。

マンデラエフェクトで、聖書の聖句個所がたくさん変わっている?という質問について

聖書の聖句個所がたくさん変わっているんですか?という問い合わせが多数あり、見ていると、日本のニューエイジャーが作っているYouTubeの動画を共通して見られているようです。

神学的に考えれば、 聖書の御言葉は、永遠に変わることがないもの。それゆえもしその記述が変わっていたとするならば、マンデラエフェクト自体を起こしている霊が、悪霊からくるものであるということが判別できます。それゆえ神学的に非常に慎重に見ていかなければならない領域だといえます。

「こう言われているからです。 「人は皆、草のようで、 その華やかさはすべて、草の花のようだ。 草は枯れ、 花は散る。 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」

ペトロの手紙一 1:24-25 新共同訳

そしてその論点を踏まえた上で、指定の動画を検証してみたのだが、おそらく個人的にキリスト教への反感やある種の敵意を持っている方で、ちょっとあまりにも映像編集に悪意があったので、これはちゃんと正した方がいいのだろうと思い、また質問も増えてきたので、一覧して見られるように記載します。

欽定訳聖書の内容が1000か所以上変わっているというセンセーショナルなタイトリングの動画ですが、引用されているのは 1611年(日本でいうと江戸時代)に翻訳された欽定訳聖書(King James Version)。時代的にはちょうどシェイクスピアの時代。

基本的な聖書神学の知識と、中世の英語の教養(例えば、youがthyやthouと表現されたり、souldがshaltと表現されるなど)があると、わりとこの動画でいわれている指摘は、これらは 単純に 古語の知識不足からくるものだと客観的に判断できる。 1963年の新アメリカ標準訳聖書(ASV)日本語の新共同訳 口語訳などは変わっていません。

highway(街道)やmatrix(古語で子宮) alien(異邦人/外国人)table(石板)など挙げられている全ての例が 聖書に関わらず普通に使われる英語表現。日本でいうと江戸初期の翻訳の中に 現代のSF風なワードが使われていると感じて その異化的な作用から認知不協和が起きているのだと思います。

またそもそも聖書というのは原文が、旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシア語になります。そこで、聖書の中身が変わっているとするならば、そもそも原典となるヘブル語やギリシャ語の写本全てが連携して変わることになるはず。もちろん日本語もそれに連動して変わります。(基本的にマンデラエフェクトの特徴は、オーストラリア大陸の移動のように歴史から何から完璧な形ですべてのものが連動して変わるので、ほかの要素との関連性に矛盾が生じないような変化となるはず)

しかし、むろんそうしたことは起きておらず、単なるこの方の中世の英語に対する(あるいは動画を見ていると、そもそも ルカ19章23節の銀行や利子の話 、 27節の終末の日の裁きの話 、タラントンやムナのたとえすら知らないという意味では、聖書の内容そのものへの)教養不足による誤解だということは、客観的に判断できます。

日本語の動画の編集自体に、おおもとの映像以上のメッセージを入れ込もうとする編集上の悪意を感じたのですが、アメリカの方のサイトを拝読したところ、悪霊の追い出しのミニストリーをされている方で、おそらく特定の教派の教会ではなく、牧している方のカラーが非常に出やすい単立教会。この方の見解では、マンデラエフェクトはCERNの書き換えが原因で 悪霊からの聖書への攻撃だということになっていました。しかし冷静に考えると上記の点においても、そもそも原典となるヘブル語や、ギリシャ語、もちろん日本語の他の言語を含めたものは連動して変わっているということはありませんでした。

しかし、興味深いことは、こうした発信源が、特定の悪意を持ってオリジナルの動画から再編集したものが 、さらに人の手に渡る中で、話が膨らんでいくこと。そして、「聖書の内容が変わった」という伝言ゲームをしてい人のほとんどが、そもそもほとんど聖書を読んだことのない、そもそもキリスト教に対して割と強い偏見を持ったニューエイジャーの方が多かったということ。

そもそも記憶が書き換わったということを証言するには、それ以前に読んで記憶があるということがマンデラエフェクトの実在を証言する前提なのですが、結局自分の記憶をもとにしていないため、どんどん伝言ゲームで話が大きく膨らんでいく、いわゆるニューエイジにありがちなエコーチェンバー型のカルト的言説になってしまってるようでした。

また、こうした伝言ゲームが執り行われていたプロセスで共通して感じるのは、おそらくキリスト教というもの自体に、よい印象をもっておられないのかな?という感じを受けます。

個人的には、これを機会に、ニューエイジという文脈を、客観的にメタ認知して知るためにも、聖書を読んでいただければな…と感じます。

また、ニューエイジ文化の危険性についても書いています。何よりも僕自身がニューエイジ文化のど真ん中にいましたから、 むしろ12年もの間ニューエイジ文化を積極的に引っ張っていた側の人間だったわけで、誰よりも罪が重く、むろんどんなニューエイジャーも裁くことはできないし、そもそも僕自身クリスチャンとしても、罪人でしかありません。今の自分の身において、そうした罪を贖ってくださった主イエスキリスト以外に、全く持って誇るところはないなと感じます。ただただニューエイジ文化の持つ危険性を知り、同時に福音の恵みを知っていただければ嬉しいなと思い、日々、証しています。

https://church360vr.com/?s=%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B8

主の平和がありますように、父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

マンデラエフェクトが広く伝播し始める

マンデラエフェクトが先月twitter上で最初にバズり始めたのは 陰謀論をベースにしたエコーチェンバーの内部だったが ここ数日その外部にも伝播し始めた。指数関数の爆発的な曲線を描きつつあるので やはりここからものすごい勢いで飛び火し 今月中旬には相当なところまで広がっていくのだと思う。

陰謀論をメタ認知するために

陰謀論という権力論に関するベタな文脈を、メタ認知するには、「権力」とは何かという政治学や社会学の知識もとても大事になる。マックスウェーバー、マルクス、サミュエルハンチントン、ミシェルフーコー、ハンナアーレントなどもそうしたメタ認知において、必須の知識だと思う。権力を構造として捉える視点を持たない限り、永遠にジャーナリズムの域を超えないし、根源的な問題は解決しない。

そうでなければ単なるペーパーバックの知識の寄せ集めになってしまう。それはニューエイジ 的なポップカルチャーの域を超えない。またそれだけでなく実際にその背景の存在するものは霊的な存在でもあるため宗教学や神学も大切だ。エコーチェンバー化する時代においてはなおのことこのことを理解することは大事だ。そうしないとミイラ取りがミイラになってしまうだろう。

そして、エコーチェンバー化するSNSの時代において、こうした学問的な「物事を俯瞰して構造的/抽象的に捉える視点」よりも、何よりも大切なことは「汝の敵を愛せよ」の地に足のついた精神だ。福音は決して知恵あるものに啓示されたのではなく、謙遜ぜ砕かれた心を持った小さきものにこそ与えられた。

「迫害するもののために祈る」「汝の敵を愛する」この思想がない限り、今の時代のエコーチェンバー化は決して止めることができない。迫害するもののために祈る。これがクリスチャニティ の本質となる。クリスチャンにとっての戦いは、決してこの世における血肉の争いではなく、天にいる悪の諸霊を相手にする霊的な戦いなのだ。

主の御名においてお祈りいたします。アーメン!

「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」
‭‭エフェソの信徒への手紙‬ ‭6:12‬ ‭新共同訳‬‬

「だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」
‭‭エフェソの信徒への手紙‬ ‭6:13-18‬ ‭新共同訳‬‬

「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭11:25-30‬ ‭新共同訳‬‬
https://www.bible.com/1819/mat.11.25-30.新共同訳

陰謀論とマンデラエフェクト

SNSは、エコーチェンバー化していく時代。最初にマンデラエフェクトがバズり始めたのは、すでにここ数年の流れの中で(おそらく原発事故以来)陰謀論をテーマにして自然発生的に形成されていたいたエコーチェンバーのコミュニティ内部において。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/エコーチェンバー現象
陰謀論を語っている方は共通して、社会悪を正し、弱い人のために巨悪と戦うという共通項があって、個人的にDMなどで話すととても礼儀正しく、思いやりが深い方が多いと感じる。他者や社会を思う心がなければ、こうはならない。いわゆる義憤なんだと思う。
また、本質的には陰謀論を語る方は、霊的なサタンを筆頭にする悪霊たちの軍勢の計画を感じているのだと思う。そうした諸霊の働きを観察していくと、もちろんその霊に動かされている組織や、宇宙人などの人間ではない存在なども見えてくることになる。
サタンは実際に存在するし、悪の諸霊というのは決して人としての形を持たない霊的な存在。そういう存在は元に存在する。無論、クリスチャンや教会自体もこうしたサタンや悪霊からの攻撃は常に受けている。こうしたものに立ち向かう時、大事なのは、汝の敵を愛せよという愛。右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさいという愛。しかしこれは御言葉があってのこと。人というのは愚かなものなので、御言葉に依らなければ、すぐに血肉の争いになってしまう。

「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」
‭‭エフェソの信徒への手紙‬ ‭6:12‬ ‭新共同訳‬‬

諸悪というのは決して人の形を取っていない。まして人間そのものではない。悪の根源が、人の罪にあり、その罪をもたらした存在が霊的な存在であるということがわかると、陰謀の背景にあるものも見えてくると思う。
そういえば僕も大学時代にどっぷりと陰謀論にはまった。陰謀論はある種のオカルト的世界に入る際の入り口になっているのだと思う。そしてその後に霊的な世界が確実に存在していることを実感し、政治学はもちろんのこと、諸宗教や哲学、オカルトの世界に入った。12年占い師をやって、最終的に聖書に行き着いた時に感じたことは、結局のところ、他者を思いやる愛が自分の人生を狂わせず、正しい方向に連れて行ったのだと思う。たとえ間違えた方向に進んでも、常に聖霊の働きを通じて、正しい方向へと正してくれた背景には常にイエス様がいたことに気付くのだ。それは僕自身の人生がいかに主にあって罪を赦されているのかを通じて証できることだ。主の御名においてお祈りします。アーメン!

VR教会とリバイバル

SNSがfacebookからinstagramに移行したように、コミュニティの抽象度(ここでは文章→写真)に高まることによって、それに適応するSNSのサービスは移行する。おそらく今後のコミュニティの抽象的レイヤーは、「信仰」になると思う。VRが発達していくにしたがって、リアルとの境目が無くなり、また時空間の制限がなくなっていくため、同じ現実を体験するためには(つまり繋がりあうためには)、信仰レベルで一致していかないと、現実を共有しえなくなっていく。今回のリバイバルは、おそらくこうした社会背景と技術的イノベーションも大いに関係してくると思う。エコーチェンバーを防ぐためには、信仰の一致しかないし、それは歴史的にもヘレニズム期と中世、近世で、国際化→ルネサンス→リバイバルという流れが常に存在していることからも、証明されている事実。VR教会はこの流れに属する。非常に重要なインパクトのあるリバイバルの源流になると思う。

【ベツレヘムの星便り】367号    聖書におけるコミュニティ



◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)


 2019/9/8                                 367号


こんにちは、杉本譲治(旧ユピテルジョージ)です。

今日は聖書における、コミュニティ論についてお話します。

聖書の世界では、イエス様を自分の救い主として受け入れた段階で、
霊的な意味で、クリスチャンの共同体に迎え入れられると考えます。

つまり、イエス様が、私たちの罪のために十字架の上で死なれて、
墓に葬られ、3日後に復活したということを信じた段階で、
心の内側に聖霊が内住し、その聖霊の力によって、
霊的な意味で、クリスチャンの共同体へと迎え入れられます。

この共同体は、「目に見えない教会」や「普遍的教会」とも呼ばれ、
教派の違いを超えて、世界にただ一つだけの
イエス様を信じる全ての信徒たちが所属する教会と考えます。

しばしば誤解されがちなのは、聖書の世界の中における教会という言葉は、
ギリシア語で、エクレシアと呼ぶのですが、
これは決して「建物の教会」を意味しているのではなく、
「会衆」や「人の群れ」という意味を持っているということ。
本来は、建物ではなく、イエス様を信じたコミュニティ(人の集い)
のことを指して、教会と呼ぶのです。

教会というと、どうしても建物の教会をイメージしてしまうので、
私は、エクレシアや、ミニストリーといったほうが
日本語的には分かりやすいかなとも思っています。

私も、毎週土曜日に国際弁護士の佐々木満男先生が牧されている
ホテルグランドハイアットのレストランでの集い(モーニングブレイクファースト)
に参加していますが、これも聖書的な意味で言うところの立派な「教会」になります。
礼拝堂や建物がなくても、信徒が集まるとそこに教会は成立するのです。

特定の宗派に所属しないこうした群れのことを、超教派と呼んだり、
特に日本では、内村鑑三が築いた伝統の上に、無教会派と呼んだりも
します。

僕自身がなぜ、敢えてこうした無教会派的な集いにこだわっているかというのは、
わりと日本人にとって教会=建物と思われることが多く、
ある種の敷居の高さを感じることが多い(僕自身もそう感じていました)
ということが理由に挙げられます。

本来は、もっと気軽に、聖書を読んで、イエス様を信じた人々の集い
(あるいは聖書やイエス様に興味がある人も気軽に参加できる場)
というのが、日本にもっとたくさんあればいいのになという思いで、
そういう価値観を共有できる方を探したところ、あっという間に
その考え方を共有できる方々とお会いできるようになったわけです。
これもまた主の恵みだなと感じます。

さて、こうしたコミュニティがどのような御言葉に基づいて形成されている
のかを知る上で重要な箇所は、主に、「コリントの信徒への手紙」と
「エフェソの信徒への手紙」の2つの書簡になります。

今日はコリントの信徒への手紙の中から、聖書が考える
コミュニティ形成についての、重要な箇所をご紹介します。



▼コリントの信徒への手紙一 12章18節~27節 新共同訳


「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょ
う。 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。

目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって
「お前たちは要らない」とも言えません。

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、も
っと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。

見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分
をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。

それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。 一つの
部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべ
ての部分が共に喜ぶのです。

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」


聖書では、福音の三要素を信じた人は、イエス様の身体の一部になると、
伝えています。そして、人によってそれぞれが持っている賜物(才能)を
活かして、互いに支えあっていくことの大切さをみ言葉を通じて伝えています。

クリスチャンのコミュニティは非常に特殊な側面があり、
それはそもそもすべての人がひとつの同じ神を信じており、
また教派の違いに関わらず、同じ聖書の御言葉の上に成り立っているので、
初対面の人でも、すぐにまるで「家族のように」親密になれるという特徴があります。

こうした一瞬でラポールが築かれる、親密さというのは、
イエス様が宣教なさったヘレニズムの時代には、
様々な文化や国々が交じり合った、いわゆる国際化が進んだ時代において、
信頼を醸成するうえで非常に重要な役割を果たしました。

2000年経った今でも、この特徴は引き継がれていて、
聖書を学ぶという焦点で、クリスチャンの集いに参加すると、
そもそも信じている価値観が同じものなので、信頼関係を形成し、
親しくなるスピ―ドが信じられないくらい早くなります。

しかも、日本だけでなく、海を超えて、世界各国の兄弟姉妹との
関係性も、広がるのです。世界中に20億人以上いますからね。

SNSは主に、情報を共有する中で、「友達の友達は、友達である」という
価値観に基づいて発達してきましたが、今はむしろエコーチェンバー化
に見られるように、むしろ自分と価値観が異なる人との差がどんどん広がり、
人々の意識は、繋がるばかりか、分断と孤独へと進んでいる側面が、
近年とても大きな問題になってきています。
また、その背景には、「自己実現」をベースとしたニューエイジ的な思想が、
ベースに存在しています。

聖書の世界のコミュニティ論はこれとは異質なもので、
聖書は「知識」ではなく「信仰」を共有するという構造をとります。

つまり三位一体の神(父と子と聖霊)と、聖書の御言葉という
ゆるぎない信仰の中心を、文化や人種、時代すら超えても、
共有できるような構造を持っているのです。

そして、そうして形成されるコミュニティも、全て聖書の御言葉によって
成り立っているので、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要
なのです。」というようなメッセージのように、私たちにとって本当に大事な
「無償の愛」という概念で成り立つ関係性が豊かに形成されるように
なっているのです。

私はこれからの時代は、エコーチェンバー化の弊害などにみられるように、
SNSなどで「知」の共有が重んじられた流れが終焉していき、
聖書で語られるような「信仰」の共有こそ、
本当に必要な価値になっていくだろうと考えています。
聖書は、「汝の敵を愛せよ」というしっかりとした芯があるので、
エコーチェンバー化しえないという側面があるのです。

それゆえ、今年に入ってから、本当に価値ある情報をお伝えしていきたいと
いう思いに基づいて、事業や提供するサービスの構造も
聖書の御言葉に基づいたものへと、大きく変化させていっているのです。

12年間歩んできた占星術師としての道のりを終えて、
6月からクリスチャンとして出発し、今月で4ヵ月目になりますが、
着々と、新しい時代に必要な本当に価値ある考え方を、
しっかりと提供できる基盤を、整えています。

わずか3ヵ月の間に、僕自身の身においても、
この世界を造った創造主に祈った通りの形で、
僕の身の周りでもこうしたクリスチャンのつながりが
奇跡的な規模で、豊かに広がり始めていること自体が、
聖書の御言葉と、主イエスキリストが、
いまも生きておられることを証していると日々実感します。
3か月前はクリスチャンの知り合いは、ほとんどいませんでしたからね。
それが今や、たくさんの魅力的なクリスチャンの仲間に恵まれています。

土曜日の集いも、とても温かいコミュニティなので、
気兼ねなく参加してみてくださいね。

今週もあなたにとって素晴らしい一週間となりますように。
父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。



【クリスチャンの集い】土曜日パワーブレイクファーストのお知らせ


8月より、毎週土曜日の朝9時に、東京六本木のホテルグランドハイアットの
フレンチキッチンにて開かれている、いつもお世話になっているクリスチャンである
国際弁護士の佐々木満男先生や、作家で、牧師のジョセフケン牧師をはじめとした
熱き日本のリバイバリストたちに会って親交を深められる朝食会
(パワーブレークファースト)に、毎週参加させていただくことになりました。

本来は、ビジネスマンに向けた福音伝道を趣旨として創立された
INTERNATIONAL VIP CLUBの活動の一環として、
第1・3・5土曜日の隔週での開催で、これまでも16年間開催されてきた
佐々木満男先生が主催する朝食会です。

先日、ジョセフケン先生とお話しているときに、聖霊の注ぎによって意気投合し、
いつもは開催していなかった第2,4土曜日も、ケン先生と私は出席し
毎週必ず集い、皆で祈れるようにしましょう!ということになりました。
お申込み方法等は、詳しくはこちらからご覧ください。

https://church360vr.com/powerbreakfast


【パーソナルミニストリー】聖書の御言葉を通じて、自分の心を「無償の愛」で満たす


人生の困難に行き当たった時、判断に悩む時、あなたの手元に一冊の聖書と、主イエスキリストへの信仰があれば、常にあなたの道のりを、明るく照らしてくれます。

人生はいいことばかりではありません。
しかし、どんな時でも救い主イエスキリストは、あなたのことを見守り、
愛しておられます。

このパーソナルミニストリーでは、
聖書的な人間理解、主イエスキリストの信仰をベースとしながら、
時間をたっぷりととったマンツーマンのカウンセリングをご提供します。

「心の貧しい人々(謙遜な人々)は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口
を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
(マタイによる福音書 5:3-12 より 新共同訳 )

▼時間の目安 60分から90分程度
▼料金 本カウンセリングは、キリスト教の献身の精神に基づいた活動とな
るため、特定の料金は定めておりません。あなたがふさわしいと感じられる、
主への感謝の気持ちを込めた献金という形でお納めくださいますようお願い
いたします。

―――惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず
豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。 各自、不承不承ではなく、強制
されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人
を神は愛してくださるからです。
 (コリントの信徒への手紙二 9:6-7 より 新共同訳)

▼スケジュールの関係上、月10人までのお受付となります。何卒、ご理解、ご
了承ください。
▼日時 お申し込み後に、ご希望の日時を調整いたします。
▼場所は、表参道(東京都)のサロンとなります。ご予約後に住所をお伝えい
たします。
▼ご遠方の方は、スカイプやLINE、ZOOM等のビデオ通話を使った形にてもご提
供いたします。

▼ご予約はこちらからどうぞ
https://church360vr.com/personal_ministry



メールマガジン【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便
り)
発行者:杉本譲治


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父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。

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情報の共有から、信の共有の時代へ

やはりしみじみ実感するのは情報は信仰をコアとして集まってくるということ。エコーチェンバー化する時代において、非エコーチェンバー型の教理でありながら、信仰を共有できる聖書というものが今後果たしていく役割は非常に大きいと実感する。
確実に今の時代は、情報化時代から信仰化時代に入りつつある。

信を共有する時代

やはり情報やスキルや経験をシェアする時代から、信を共有する時代に移っていくね。これは背景としては確実にVR、AI、5Gといった技術が関係している。もはや情報やスキルや経験は全てオンラインにアップロードできる時代になってきた。つまり情報やスキルや経験における、情報の非対称性はこれからの時代大いに無くなっていく。それに取って代わって、信を育み、共有するミニストリーが今後の時代を開く鍵になると思う。
言葉(facebook)→映像(Instagram)→体験(VR技術に基づくSNS/AIの自動同時通訳による言葉の壁の消失)という形で今後人類のシェアリングテクノロジーは進展していくと思う。言語の壁を超えて、なおかつ体験をそのまま記録できるようになっていくと、もはや情報の非対称性よりも、信をいかに共有するかのほうが社会的な価値を生み出すものになっていく。むしろ知に重きをおけば置くほど、技術の発展に伴いさらにエコーチェンバー化は進むので、知の共有というパラダイムは自ずと自己崩壊していくことになると思う。

あとそもそも情報やスキルや経験をシェアできて、それを社会的な価値へと転換できる人はそもそも限られている。つまり必ずエリート主義に陥ってしまう。信を共有し、育むミニストリーは、聖書の御言葉をベースに形成されていくので、こうしたエリート主義に陥ることはない。

SNSが持つアフォーダンス―信仰告白

ある種、SNSってそもそもヘレニズム的な自己表現の文化(人間性回復運動/ルネッサンスの文脈)なので、結果的に信仰告白の場となるアフォーダンスがあるんだよね。書けば書くほど、ログがたまるほどに知らず知らずのうちに、自分の信念や信仰が、他者から見ても明らかになっていく構造。
それゆえ、結果的に、何故自分がそれを信じるのか/あるいはなぜそれではないものを信じないのかという弁証学が発達していくことになる。
SNSは、信仰告白や弁証学的な思弁に慣れていかないと、実は結構心理的な負担が大きくなるツールだとも言える。結局当たり障りのない無難なことしか書けなくなるし、最終的に読む専門でいいかということになる。もしくは自分と違う信仰や信念を持つ人をブロック/スルーして、エコーチェンバー化(カルト化)していく。
逆に信仰告白や弁証学という認知フレームがあると、自分と違う信仰や信条を持つ人に対して寛容さを持つことが可能になるし、初めてそこで「汝の敵を愛せよ」という思想に基づいた、思惟への奉仕、証、無償の愛が生まれてくることになる。

現代の思想的潮流

やはりエコーチェンバー化自体が、GAFAのヘレニズム思想(人間性回復運動)からきているので、その反対のヘブル主義という視点を持たない限り解決しない。聖書の勉強を通じてしみじみと感じるが、これはやはり今後の思想的潮流を予測するうえでも傾向として明らかになっていくと思う。

わりと中長期的に起こる事象は、おそらくエコーチェンバー型のカルトがまるでお湯が沸騰するように群発していくこと。GAFAルネッサンスによって個人の情報発信が極端に楽になったことで、情報空間の在り方が大きく変容している今、ある種の臨界点を超えつつあると思う。
GAFAルネッサンスは、価値観の多様性をもたらしたが、同時に構造上、いたしかたなく倫理的堕落をもたらす。その結果、倫理的回帰(リバイバル)が起こると思う。

GAFAルネッサンスが臨界点に達している大きな理由は、やはりデバイスの進化。結局のところ、民生用のメディアデバイスと、業務用のメディアデバイスの差異が、極端に小さくなっている。なおかつデバイス自体が、マルチメディア化していることで、ウェブ上にあげられる情報量がとんでもないことになっている。すでに本人でも振り返るのが大変なくらい、ライフロガー化している。今後は脳波や、生体情報などもアップロードされていく時代が遠からずやってくると思うので、ある意味普通に生きてきた現実よりもより情報があふれる時代になったため、もはや「編集」という概念が意味をなさなくなってしまっている。編集の時代から、信条形態、その人本人が何を信仰しているのか(知から信へ)の時代へと移行しつつある。
GAFAルネッサンスはその情報量ゆえに、最終的に、知の時代から、信の時代へと移行していく。つまりどんな信仰を持つかで、体験する世界が大きく変わるという時代の到来。そして普通に考えてこの信の共通項が多ければ多いほど、人とのストローク交換量は多くなる。つまりヘレニズム化時代特有の、ストア学派的孤独を感じなくなる。そうしたメカニズムからどの時代においても常にルネッサンスのあとに、リバイバルが来るようになっている。これは歴史的真実だ。

また情報の非対称性が貨幣価値となる時代がすでに知から信へのパラダイムシフトが起こってきてる今、貨幣価値を定義する前提が大きく変わってきている。そもそも貨幣価値自体は人々の信の上に成り立っている。知から信へとパラダイムシフトが変わる時に大きな価値となるのが、聖書の中で啓示されたエクレシアの概念。このエクレシアの本質を理解しないと、日本人の感覚だとただの「宗教団体」だと誤読してしまう。これが大きな誤読であって、これは知から信へとパラダイムが移動する中で、非常に合理的な新しい経済圏の誕生だと言える。ある意味貨幣経済に頼らずとも、信の領域で、価値が担保されているので、生きていく上で困らない支え合いのコミュニティができあがっていくことになる。これは共産主義とも違うし、今の時代だからこそ可能になる新しい経済圏の在り方だと言える。そもそも資本主義自体が、カルヴァン派のエクレシアから登場した。この原点に立ち返った時、資本主義自体がその倫理性を復興させる信仰回復運動の勃興は、歴史的にも考えて、必然性のある流れになっていくと思う。

ようはプロテスタントの誕生は、カソリック 経済圏からの独立と、新しいエクレシアの形成にこそあった。その契機となったものが、贖宥状(しょくゆうじょう)だったということも興味深い事実だ。
現代日本における格差社会から階級社会化への移行という文脈も、ここに非常に大きく関係してくると言える。

日本人が無自覚に汎神論優位主義になってしまっていることをメタ認知して、意識的に再選択することは、エコーチェンバー化の中で非常に重要な視点になっていくと思う。特に汎神論優位主義でいくならば、現時点ではあまりにも弱すぎる日本的信仰の弁証学をしっかりと築き上げていかなければならないし、それが戦前の国家神道と何が違うのかもしっかりと内外に証明していかなければならない。日本人が無意識にとっている汎神論優位主義は、弁証学的思弁にあまりに弱すぎて、割とお粗末な議論、たたの異教徒に対する無知と、ニッポンの島国根性ゆえの恥ずべき誹謗中傷、戦時中の日本人が鬼畜米英と蔑んでいたヘイトスピーチの域を超えていないと思う。どこでも手に入る聖書を読みもせず、知ろうともせず、蔑むのは、知的にも、倫理的にも非常に愚かな行為だ。
そもそも汎神論という構造自体が、シンクレティズムや偶像崇拝に陥るので宿命的にそうなってしまうわけなのだが。汎神論優位主義を語るならば、すくなくとも聖書は読み、キリスト教神学の基礎については前提として学んで、その上で汎神論優位論を、日本人としての自信と確信ををもって語って欲しいなと思う。それが本来の国際人としてのあるべき姿ではないだろうか?

福音の種を蒔くこと

御言葉を伝えていくこと、福音宣教をしていくということは、素直に悔い改め、救われる方もいれば、聖霊に満たされ涙を流しながらイエス様に感謝を捧げる方もいる。福音を聞いたこときっかけにしてイエス様について考え始める方もたくさんいるし、また批判的に捉え拒絶したり、中には築いてきた関係性を切って去っていく方や嘲る方まで、色々な方々がいる。

また、この2週間だけでも、聖書の御言葉を通じて、夫婦の危機を乗り越え、離婚を踏みとどまった方が2組もいる。ニューエイジ的な思想のルーツはそもそも人間性回復運動や、ウーマンリブやペイガニズムなどの女神信仰にあるので、基本的な方向は、少しでも問題があれば、女性の社会的自立を勧め、離婚に舵を切るようなベクトルに向くことが非常に多い。僕自身もニューエイジ的な思想をベースにして、これまでに2度離婚を経験してきたからこそ、このことをメタ認知することも大切だなとしみじみと思う。

聖書を読み始めて、いかに自分がニューエイジ的な思想に染まっていく中で、日々消耗していたかに気づいて、驚愕する方も多い。

これは当時からそうだったわけで、何もいまに始まったことでは無い。僕にできることは、あくまで思惟への奉仕と証のみ。淡々と福音を伝えていくことが大事だなとしみじみと感じる。結局のところ福音が人を救う力は途方も無いものがあることをよく知っているので、パウロが「わたしは福音を恥としない」と語る通り、人生をかけて一貫性を持って伝えていくことが大事なんだと思う。

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
‭‭ローマの信徒への手紙‬ ‭1:16‬ ‭新共同訳

僕の周囲ではすでにありがたいことに、福音を知って、聖書を読み始める人も増えてきたし、福音の素晴らしさを知るとやはり今の時代にいかに必要なものかも深く感じ取っていただけている。

その中でつくづく思うことは、ニューエイジ 的な思想の問題点をメタ認知していない場合、種を蒔く人の茨のたとえのように、いくら福音の種が蒔かれても、茨が覆いかぶさり、実を結ばないなということ。

特に今の時代はGAFA自身がニューエイジ 的な設計思想に基づいて作られているので、その仕組みをメタ認知せずに、エコーチェンバー化の中にいると本当に気づきにくい。ある意味エコーチェンバー化は、種を蒔く人のたとえの中の「茨」のようなものだなと感じる。

この聖句は、種を蒔く人、すなわち福音を伝える人を励ますもので、種が身を結ぶかどうかは、種や種を蒔く人の責任ではないので、うまく実を結ばないからといって自分を責めずに、あまねく広く福音を伝えなさいと説いたイエス様の御言葉として有名。しみじみと奥が深いなと感じる。

「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」」
‭‭マルコによる福音書‬ ‭4:1-9, 13-20‬ ‭新共同訳‬‬

クリスチャニティはインフルエンサーから始まる

おそらくエコーチェンバー化の矛盾やある種の危機感を一番抱えているのは、SNSのど真ん中にいるインフルエンサーたちで、おそらくクリスチャニティ 自体が受け入れられていくのは、インフルエンサーたちなんだろうと思う。割と今はこのインフルエンサーたちの思想は、GAFAによって牽引されてきたニューエイジ 的(ルネサンス的人間中心主義)の思想なのだけれど、これは歴史上で見たときに必ずリバイバルという形で反転する時がくる。そして多分そのインフルエンサーたちの影響力ゆえに、一度発火すると一気にリバイバルの火は燃え上がっていくと思う。結局のところ今の時代一番メディア力を持っているのはインフルエンサーだからね。

そもそもマスメディアがなかった時代に、キリスト教が広がったのは、まさにインフルエンサーを中心とした口コミだったわけで、その意味でもパウロやペテロも、インフルエンサーだったんだよな。時代の変遷は必ず、ニューエイジ(ルネッサンス/人間性回復運動)から、クリスチャニティへ(リバイバル/信仰回復)と移行する。そういうダイナミズムがこれから大きく働き始めると思う。本当に。

クリスチャニティの素晴らしいところ

僕のようにクリスチャンの信仰告白をしてすぐに、超教派的な集会に出ると、大学生の新歓コンパのようにそれぞれの教会へのお誘いを受けるのだが(むろん皆さん熱心なので心からの愛でそうなさっている)、教派や、信条が違っても、結局のところ、熱心な信仰を持っていらっしゃる方ほど、イエスキリストを頭としたひとつの身体(普遍的教会)であるということを熟知されていらっしゃるので、たとえ一時的にその場ではお断りしたとしても、何のわだかまりもなく普通のお付き合いがしていける。たとえ真反対の信条を持っていても、何の問題もなく温かい人間関係を築いていけるという不思議な(あるいは恵み深い)構造がクリスチャニティ。
ニューエイジ的な文脈になると、これがそうはいかない。引き寄せの法則という信条によって、波動が違う人とは違う世界を形成すると信じているので、決して「汝の敵を愛せよ」とはならない。このあたりが、結局最終的に、ヘレニズム主義が台頭した後に、クリスチャニティが広がるという歴史的必然性に繋がっていくのだと思う。
個人の感情によるものなのか、主が啓示された御言葉によるものなのかという違いは非常に大きい。
特にエコーチェンバーの場合は、関係性内部での同質化が高まってくると、 最初は気にならなかった微妙な違いをお互いに意識するようになり、その結果新しい分断をもたらしていくというようなことがよく起こる。やはり時代の分断を生み出しているエコーチェンバーを乗り越えていく方法は、クリスチャニティにこそあると日々深く感じる。

7の70倍まで赦すこと

SNSでバーチャルな人間関係やコミュニケーションがメインになって、顔と顔を合わせて、膝を突き合わせて話す時代ではないからこそ、イエス様のこの御言葉ってものすごく大事だなと思う。

「イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
マタイによる福音書 18:22 新共同訳

いちいちSNSのコミュニケーションで、すれ違うごとに、人間関係を失っていたら人間関係が孤立するよ。まして人間関係の断捨離なんていう思想は、愚の骨頂としかいいようがない。顔もあわせず、自分の思い込みで人を裁き、関係性を切ってしまうこと。これは、現代のSNS社会によくみられる、エコーチェンバー化の罠。

そういう意味で、聖書と御言葉を中核にし始めてから、親しい人とのコミュニケーションの密度がものすごく濃くなった。占星術やグノーシスを使った個人セッションでは決してできないような自分の元に寄せられる個人的な相談も、主の御言葉でしっかりと問題解決できるようになった。

クリスチャニティの倫理がもたらした資本主義の精神

クリスチャニティをベースにしたことで、わりと自由になった話題はお金の話題。ニューエイジ文化の中で、お金を語ることは、多くの場合すぐにマモン崇拝、サタンの誘惑が入り込むことになる。そもそも資本主義経済が発達するベースとなったのは、マックウェーヴァ―がいうように、カルヴァン主義にこそある。カルヴァン主義における予定説によって、禁欲と蓄財という宗教的には二つの相反する行いが、アウフヘーベンされる形で義とされた。これが、資本主義の倫理のコアとなる考え方。自分の十字架を背負わずに、事業をやったところで、価値なんか生み出せないし、そうやって生きる方法以外に多くの人に感動を与えたり、人を救うような、普遍的な価値は生まれない。わりと今の時代に危険なのは、ニューエイジ的な思想に基づいて自分=価値と考えることで、労働の負の効用に根差した確かな土台が無くなり、価値のインフレーションが起こりやすいということ。これはニューエイジ自体が、エゴのインフレーションに陥りやすいことと深く関係している。しかし、そもそもSNSを発達させていった現在のGAFAのような巨大企業自体が、ヒッピーカルチャーからの延長線上にあるニューエイジ文化に基づいて設計されているので、ここになかなか気づけないという問題をはらんでいる。SNS上で起こってきているエコーチェンバー型のカルトの問題は、こうした資本主義×ニューエイジ文化という中で起こるべくして起こっているバブル経済で、真理に基づかないこの構造は必ずバブルが崩壊する時が訪れることになると思う。その意味で、資本主義のコアの倫理観に基づいて、聖書を学ぶことは、中小企業の経営者にとっても、とても大事なことになるのだと思う。日本独自のマモン崇拝を離れて、確かな主をあがめること。これは自分の身を経済的に守るためにも、これからの時代とても大事なものになっていくだろうと思う。

スピリチャル業界の腐敗

スピリチュアル業界の混沌とした感じが今年に入ってからすごいことになっているな。多分昨年12月のアメブロの商用利用解禁なども原因なんだと思うが、SNSのエコーチェンバー化と相まって、完全に商業主義と一緒になって堕落して行ってる。これを腐敗と呼ばずになんというのだろう。まるでネットワークビジネスを見ているかのように思う。そこに霊的な真実はないかと。

そもそもこうなって行く原因を辿ると、結局のところ戦前の国家神道制が崩れて、戦後に経済中心主義になって以来、結局カミの中心に経済発展という神話があり続けてきたということなんだな。かといってそもそもそれを乗り越えようと思っても、アニミズムではそもそも共有できる神概念ではないので、アニミズムでは、中核は神学的に担えない(ゆえに近代化の中で廃仏毀釈や国家神道制を導入した)。ゆえに伝統的なアニミズムでもなく、資本主義でもないわけのわからないニューエイジ ビジネスが跋扈しつつある。この辺りが今の日本は混沌としているし、結構やばい状態になっていると思う。割とそう遠くない時期に経済的被害、人間関係的な堕落、倫理的堕落を伴ったプチオウムのような事件がおそらく群発していくんだろうなと思う。

贖宥状(免罪符)ビジネスがすごいね。セミナーに出れば、自分の知識やノウハウで人類の原罪が贖われるとでもいうのだろうか? 我々罪にまみれた一般庶民が、いつから人類の救世主になったのだろう?この変貌ぶりはまるでネットワークビジネスにはまっておかしくなっちゃった友人を見ているかのような気持ち。イエスキリストの十字架の贖罪以外にありえないという批判に、日本のニューエイジ の贖宥状ビジネスは、どこまで耐えうるんだろう? すでに海外のニューエイジ の騎手たちには、リバイバルが広がっているというのに。愚かだなと思うし、救われて欲しいなと深く感じる。

GAFAとヘレニズム主義(なぜ今聖書を読むべきか?)

Google(YouTube)、Amazon、Facebook、Apple(iPhone)(最近はGAFAというらしい)などのネットサービスも登場してわずか数年で世界で有数の巨大企業になった。
日本におけるクリスチャニティのリバイバルも、まさにこういう形で一気に広がっていくことになる。今は風前の灯火ともいえる日本のクリスチャニティも、聖霊の注ぎによってリバイバルが起こる時には、とんでもないスピードで広がり始めると思う。少なくとも私たちが生きている時代はまさにそういう時代なのだ。

ちなみにGAFAの背景にある哲学は、ヘレニズム主義(人間中心主義、ヒューマニズム)にある。もともとはヒッピーカルチャーやニューエイジ文化のように、体制に対するカウンターカルチャーだったヘレニズム主義が、今は、むしろ体制側、メインストリームとなったのが今の時代。今の世の中のトレンドを形作っている動きの、背景にある思想をしっかりと知ることはとても大事なこと。ヘレニズム主義をよく理解するという意味でも、聖書を通じて、その反対の極にあるヘブル主義(創造主中心主義)を学ぶことは大事。

そもそもGAFAのシステムの設計思想が、ニューエイジ的なものなので、人々の意識がニューエイジの方向に向かうのは自然。特に、日本においてヘブル主義的な価値観がないため、諸外国よりも免疫がない。ゆえにニューエイジ的な弊害はむしろたくさん出てくるといえる。そもそも、エコーチェンバー化は、こうしたGAFAの設計思想にある重大な欠陥だといえる。このあたりを思想的に乗り越えていかなければならないと思う。

つまりSNSの設計思想上、SNSへの依存度が高まるほどに、知らず知らずの間に、ニューエイジ 的な思想になっていくということでもあるのかもね。SNSの論説が、エコーチェンバー化する理由はこうしたヘレニズム的な設計思想も背景にあるんだと思う。

まぁ基本的な設計思想は、いいね!をもらうために、何も考えなくとも、スマホを開いてパブロフの犬のようにずっと自己言及し続けるという構造だからね。人と繋がっているようで、本質的には繋がっていない。無論、facebookやインスタといったSNS自体の利益とは繋がっているだろう。そもそもSNSができるまで、人は日々の生活の中で、ここまで毎日自己言及しなかった。SNSという形で読まれる日記だからこそ、内容も盛るし、自己演出もする。

もし読まれる前提もなく、日記で自分を盛ったり、演出していたら、ただの気持ち悪い過度なナルシシスト。SNSはこうしたある種のナルシシズムに基づいていて、そもそも人に興味がない。こういうところに疲れる人は、SNSから離れて行くだろうし、ニューエイジ 的思想を強化して行くことに抵抗を感じない人は、どんどん深みにはまって行く。

そしてミイラ取りがミイラになるように、結局ニューエイジ 的商業主義に巻き込まれて、自分の生活もニューエイジ 的経済に乗っかっていくといよいよやめられなくなる。ニューエイジ ビジネスをしている人の発信を続けられる心理状態って、そういう構造なんだと思う。エーリッヒフロムが「悪について」で述べるように、こういったナルシシズム的構造から悪が生まれてくるのだと思う。ニューエイジ の本質ってある種のナルシシズムなんだよな。こういう矛盾を今の日本のSNSは抱えているように思う。

ジョンウェスレーの神学

ジョンウェスレーの神学(いわゆるメソジスト)をベースとしたウェスレリアン聖書注解(新旧両訳あわせて全7巻)が届いた。ウェスレーの神学はその後ホーリネス運動や、ペンテコステ派などにつながる、アルミニウス主義と聖化のプロセスを強調する神学で、僕自身の召命された背景にあるもののベースとなる神学なんだなと実感。今までの霊的な思索や研究の中で深めてきた内容とも、非常に調和するので、また活路が開かれてきた感じ。主の恵みだね。とても嬉しい。
ウェスレー神学の構造は、信仰義認による救いの教理をベースとしながらも、同時にその後の聖化に対する合理的な説明の基礎を提供するので、非常に心地いい。素晴らしい神学構造だと思う。
例えばこのウェスレー神学に基づいた大学として青学や関学があるように、たしかにメソジスト系が教育業界とも相性がいいのはなるほどと思う。これはこれまで活動してきたコーチングなどとも非常に相性がいい神学構造となるので、ようやく神学的にも活路が見出されてきた感じになるね。これなら牧師としてだけでなく、何より教育者としてしっかりとしたエートス(倫理)のもとで、人に献身することができる。このエートスの不在こそ、日本が異文化誤解して受け取ったニューエイジ 文化について感じていた違和感とある種の嫌悪感だった。これがようやく神学的に説明がつく。本当によかった。
まぁこれで「青学や関学が、背景的神学として基礎にしているウェスレーの神学をベースにした教育法に基づく献身ですよ」という説明ができるようになる。実際にそうだしね。実際、主は僕を牧師としてよりも教育者として召されたと考えた方が自然なんじゃないかなと思う。新たなコーリングが始まっているな。
特に僕自身、経営コンサルタントなどを通じて、経済的なアドバイスなどをするという、主から与えられてきた献身のための賜物があるので、経済活動とクリスチャニティの理論との調和はとても大事なテーマだった。ようやくその解が、メソジスト系の神学の中に見出されるようになってきた。ほっと一安心。
また、この神学のおかげで、今日本に跋扈しているカルト化したニューエイジの特に経済的な諸悪についても、しっかりと論駁できる神学的なベースができたともいえる。エコーチェンバー化するカルト的言説とその背景にある諸悪の霊と戦っていくためにも、エフェソ信徒への手紙の中の神の6つの武具のように、論駁するために必要な神学的ベースが必要だったからね。
正確には、牧師業と、教師業のふたつがあるということだね。あるいはコンサル業といってもいい。これで色々整理がつく。こうした業としての境界がしっかりあることで、例えるならば、「青学や関学は、クリスチャン系の大学だから、すべての救いを求める人を受け入れるために入学試験もありませんし、学費も献金性です、あるいは無償です」とはならないというように、よく理解していただきやすくなるからね。
これまで事業の中で築いてきた教育的資産という側面において、神学的にも、そのベースとなる経済的な価値を全否定する必要が無くなったし、と同時に、僕自身が「無償の愛」ということをずっとお伝えしてきたかったことが、伝道師という形でもしっかりと伝えることができるようになった。
これで、しっかりと僕自身のクレドに基づいて、お客様への誠実さをしっかりと事業の中でも、しっかりと説明ができるようになった。この活路は、活動を継続していく意味でも、本当に非常に重要なものだから本当によかった。
特に僕の築いてきた価値のベースは、教育的な資産にこそあるからね。
ウェスレーの神学のすごいところは、ルター以降の信仰義認の姿勢を固辞しながらも、それまでは戒律主義、自己義認の罪と批判されがちだった規律的生活(ゆえにメソジストといわれる)を、聖化という中に理論的に内包させることで、信仰義認と規律的生活(メソジスティックな姿勢)を両立させたことだね。ロマ書8章の中における、聖化というプロセスを協議の上でも重視視することで、一度はルターがカソリック批判の中で、技による救いとして切り捨てたものを、プロテスタント的神学構造の中で自己矛盾を起こさずに、再文脈・再結合させることができるようになったということなのか。特にカルヴァンの予定説に対抗して、アルミニウス主義(先行的恩寵説)を唱えたことも、こうした神学的な意味での、大きなブレイクスルーになったわけなのか。なるほど。

ミュージシャンのカニエウエストが宗教団体を設立

ミュージシャンのカニエウエストが宗教団体を設立。
https://www.vogue.co.jp/celebrity/news/2019-7-08/kanye-west

いろんな形で、福音が伝えられるようになってきてるんだな。おそらくゴスペルとも親和性の高いペンテコステ派になるんだろうと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88
日本で宗教団体の設立っていうと、オウム真理教の影響ですぐにカルト?ってなるけど、普通に西洋社会で教会は、いまでも建てられているからね。この件ももちろん、日本においてとらえられるようなカルトという意味あいでとらわれず、あくまで西洋社会では、COOLでイケてるという文脈になる。トランプ大統領が誕生して、日本人の多くの識者があっけにとられたように、こうした流れはしっかりとチェックしていく必要があると思う。
ビートルズによって、ニューエイジ思想が日本に入ってきたように、おそらくこれから福音派やペンテコステ派に転向したアーティストのミュージシャンの影響で、本格的にキリスト教的世界観が日本に入ってくると思う。そうなるといろいろ文化受容も加速するんだろうね。ジャスティンビーバーもペンテコステ派に転向したし。
https://www.gqjapan.jp/life/business/20160409/what-would-cool-jesus-do/page/2
海外の宗教(キリスト教)×クールという価値観は、音楽というメディアに乗ると、日本でもかなり受け入れられやすくなるんだろうなと思う。
SNSの時代の次は、日本の文脈では全く理解できないが、おそらく西洋社会ではリアルなコミュニティであるエクレシア(教会)の時代がくるはずなんだよね。論理的に考えていくと、どう考えてもそうなると思う。
主を畏れ、愛し、隣人と、敵を愛する。これしかエコーチェンバー化するSNSへの、解決策はないんだよね。日本はこの問題をどう乗り越えていくか?ニューエイジの教理では決してこうした問題は解決できない。だからこそ聖書を読むことが大事。
そもそも2007年に占いを始めたときにはたくさんの偏見を浴びせられたからね。それが今や日本では占いはクールな文化になってしまった。
いまキリスト教に回心しても、あの当時のような偏見を持たれることが多いが、まぁ、すでにこうした偏見の目は慣れているといえば慣れている。わりと偏見にさらされることが多かったこれまでに歩んできた道のりを考えれば、今僕がビジョンとして描いているような主の栄光が讃えられる日も遠くないだろうし、今はそういう種まきの時期なんだと思う。
そういう意味でも、これから日本にもキリスト教のリバイバルは確実にやってくると思う。少なくともこのカニエウエストの文脈は、日本の宗教的な文脈をも変える力があると思う。

https://www36.atwiki.jp/gachmuch/pages/1015.html

ニューエイジ的終末論の不完全性

ニューエイジ的な終末論というのは、汎神論である以上、非常に不完全なものなんだよな。そもそも終末論は、一神教的な集合的救済論と必ずセットにならないと、単純なカルト的教義に陥る。まずそもそも人格を持った一人の創造主が前提となっていない段階で、信仰義認という枠組みが成り立ちえない。ゆえに、技による救いがベースとなる。個人の霊的な能力やグノーシスによる救いを前提とするため、エリート主義に陥り、集団救済論が成立しない。そして、汎神論であるゆえに、シンクレティズムに基づくため、皆が同じものを信じられるようになるための弁証学が発達しない。ゆえにそれぞれが信じるものがバラバラになり、そもそも同じ神を信じていないためニューエイジの中で分離が起こる。結局のところ、「自分自身」だけが信じられる存在=神であるというところに行きつく。これが行き着く先は、単なる孤立と空中分解である。つまりキリスト教におけるイエスキリストを一つの身体とした信徒のつながりという、教会形成論自体もニューエイジ的の救いの教理にはないわけだ。
2012年アセンション以降、パラレルワールドという言葉で、エコーチェンバー的カルト化が進んでいき、どんどん空中分解していっている。こうした分離が進んでいる姿に、どこにワンネスを感じられるのだろうと不思議に思う。
聖書を学んで、こうした矛盾した構造、不完全な教理から目醒める必要があるのではないかなと思う。聖書の世界でも2000年間の間、「すでに/いまだ」の教理的構造の中で、どの時代にも常に終末論が機能してきたことを知れば、もうちょっと落ち着いて、今の現実をまなざすことができるんじゃないだろうかと思う。この2000年間、どの時代だって「すでに/いまだ」であり続けてきたわけだ。そういう視点を聖書の世界に誠実に学ぶべきなのではないかなと思う。
日本にはこういう聖書的な集合救済論の視点が文化的になかったからこそ、アメリカのカウンターカルチャーとしてのニューエイジ文化を誤解して受け取った。そして、ノストラダムスの大予言という終末論に基づき、安易に汎神論&技による救いという霊的に無防備な状態のまま突き進み、ニューエイジ的言説を振り回して、オウム事件のような悲惨な事件を生み出す社会になってしまったのではないかと思う。

日本のニューエイジの問題点

日本のニューエイジ(いわゆるスピリチャル)の中でよく言われる、
・全ては私
・私が見るものは全て私の表れ
・外の世界は全て自分の意識が具現化したもの
・自分の心の内側に真実がある
こういった考え方は、すべからく汎神論になる。
しかし、そもそも、日本においてこうした論説が、汎神論であるという自覚はほぼ持たれていないのではないかと思う。
日本の神概念は基本的に汎神論である。八百万の神というよりも、汎神論というフレームで見るとより理解しやすい。あくまで八百万というのはたくさんのという意味で、つまり路傍の石も、大空の雲も、大地も、海も、動物も、あの人も、私も、全てが神のエッセンスを持っているという考え方を、汎神論という。
また、仏教も同様の汎神論である。自他の境界を越えて全てが我であり、その我を超えるという仏教の悟りも汎神論となる。
ちなみに、この汎神論が、人間の理性で構造的にとらえられるという考え方が、理神論となる。科学やグノーシス主義はこの汎神論の延長線上にある、理神論的なフレームとなる。
また、最近流行りの、パラレルワールドという考え方は、汎神論から発展した、唯心論、唯識論、汎経験論なフレームといえる。
ここで非常に重要なことは、これらはすべて一神教的な考えの反対の極にある考え方であるということ。
また、そもそも日本で生まれるとこうした汎神論的なフレームが当然の考え方になるため、無自覚に汎神論優位主義を取ってしまうという過ちを犯しやすいということだ。つまり、汎神論は、一神論に勝るという考え方にしばしばよく陥る。
日本人が持ちやすい汎神論優位主義は、結局のところ、そもそも新旧両訳聖書を実際に読んだことがない人の、一神論に対する無知、それ以上に自分が汎神論優位主義に陥っていることに気づいていないことからくる単なる誤解であるということが、非常に多い。
ちなみに、西洋で論じられる汎神論は、基本的に、一神論を一度踏まえたうえでの、選択的な結果として現れる汎神論になる。つまり、スピノザのように自覚的に汎神論を選択している。
あえてメインストリームをメタ認知する上での自覚的な汎神論か、自らの歴史や文化に規定された結果無自覚にその中にいる汎神論かでは、その意味合いが相当に異なってくるという視点はとても大事だ。
こうした日本における汎神論優位主義というフレームは結果的に、ニューエイジの受容過程において、非常に重要な文化的な誤謬をもたらしているといえる。
あくまでニューエイジは、一神教的な世界をベースとしたうえで、そうした父権的な構造を否定するために生まれたポストモダンの思想である。つまり、ポストモダンは、モダン(近代)を経由して、初めて成立する思想だ。そもそもモダンを経由していないで、そのままポストモダンに進もうとすることは、そもそも、本来は、単なるプレモダン(前近代)への回帰でしかない。
そもそも日本の宗教観は、江戸時代の鎖国政策によって約400年間にわたってヘブル的な一神教の受容が起こらなかったため、本質的な意味では、汎神論から、一神教的な世界へのモダナイゼーションが起きていない。戦前の国家神道もヘブル的な価値観を取り入れたとはいえ、神道である以上大枠は基本的に汎神論である。
つまりそもそも日本の宗教観はモダン化していないからこそ、ポストモダンに行きようがない。その上で、特にアメリカを中心としたポストモダンな思想が流入したことで、メタがベタに受け入れられてしまった。その結果、日本は、そもそもヘブル的な価値観を知らないまま、単なる汎神論優位主義に陥ってしまっているといえる。
具体的に言うと、最初に紹介した、
・全ては私
・私が見るものは全て私の表れ
・外の世界は全て自分の意識が具現化したもの
・自分の心の内側に真実がある
というフレーズを、ニューエイジ書籍で見たときに、「そうそう、これこそが私たちの東洋の文化の神髄だ!」「ついに西洋で発展してきた科学の世界が、東洋の叡智に近づいてきた!」と鼻高々になってしまうということ。
しかし、あくまでこうしたフレームは、西洋ではモダンを経由したのちに訪れるポストモダンであるにも関わらず、自分自身は、単なる汎神論優位主義に陥っていることも知らずに、ベタにこれが素晴らしいと受け取ってしまう。
本当に素晴らしいかどうかは、一神教の構造を新旧両訳聖書をしっかりと読み、その神学構造を知ったうえで、スピノザなどの汎神論の書籍をしっかりと検討したうえで、意識的に選択しなければ、「自分の考え」とはいえず、あくまで文化に規定された「無意識的な選択」にしかすぎない。少なくとも海外のポストモダンは、そうやって東洋の思想を取り入れている。
単純に海外からくる東洋っぽい思想をありがたく受け取って、何の批評も検討もせずに、ベタに逆輸入されたありがたい思想として、受け取るのは単なる文化的、知的怠慢だと思う。
そういう西洋の人々が培ってきたモダンからポストモダンへの移行の努力を、東から西へ、日本人もしないといけないのではないかと思う。少なくとも海外における日本的な汎神論受容は、モダンの枠組みから抜けるために、鈴木大拙などを読んでいるわけで、そういう努力を果たして日本の宗教的世界はやっているかということは、非常に重要な視点ではなかろうか?
こうしたことを宗教界において、真面目にやっていたのが、内村鑑三や新島襄であって、こうした日本の宗教界をモダン化しようとしていた先人たちの道のりを無視して、ありがたくニューエイジを信奉している現在の状態は、決してプレモダンであって、ポストモダンとは言えないのではないだろうか。
また、こうした視点が、なぜ重要かと思う理由は、汎神論的世界観においては、聖書的な信仰義認による集団的救済論と結びつきようがないということ。このルターが再発見した信仰義認による集団的救済論というセオリーから、資本主義の思想や、近現代化が始まった。マックスウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の論理」で論じるように、モダナイゼーションは、明らかにキリスト教のプロテスタンティズムから始まったのだ。
日本がそもそも国際化の波に本格的に巻き込まれるのは、おそらく有史以来初めてのことだ。しかもそのスピードは人類史上かつてないスピードで加速している。その意味で、西洋で体験された宗教改革を経ずに、私たちの思想的なベースは、一気に世界のモダナイズされた宗教観に追い付かなくてはいけなくなってしまっている。ある意味、非常に危機的な状況にあるのだと思う。このあたりが、今のニューエイジの中で見られ始めている混乱(群発するエコーチェンバー型カルトの存在)の背景にある流れであるし、そもそも、1995年に日本に衝撃を与えたオウム事件はその日本的ニューエイジの闇を露呈するものだったといえると思う。しかし、SNSによって広がっているエコーチェンバー型のカルトは、潜在的にそれ以上の危険性をはらんでいるのではないかと思う。
こうした日本においてブログやSNSなどを中心に広がっている群発型カルトの多くの共通する特徴は、無批判に「自分を愛することが大事」というニューエイジ的な教理を受け入れ、結果的に、単なるモラルハザードが行われていくということ。こうした部分が、おそらく今後、経済的な破綻、人間関係の破綻、道徳的な破綻という形で、あるいはそれらが複雑に絡み合った状態で、波及していくのではないかと思う。昨年末に商用利用が解禁されたアメブロなどでは、すでにこうした問題は表面化しつつあるといえる。
今後かなり早い段階で、群発するエコーチェンバー型カルトの問題は、表面化していくと思う。オウム事件のように大変なことになる前に、今の日本のニューエイジが置かれている状況は、とても危険な状況にあることに、気づかなければならない時なのではないかと思う。
少なくともしっかりと、ヘブル的な価値観、一神教的なフレームを知って、こうした日本特有の汎神論優位主義に基づくニューエイジ信仰が陥りやすい、カルト的問題に、個人のレベルでもしっかりと守備を固めていくことはとても大事なことになっていくのだと思う。
少なくとも、キリスト教の三位一体や信仰義認の教理を知ることで、こうしたカルトの問題について、巻き込まれず俯瞰してみることができるし、その悪影響をしっかりと防ぐことができる。長年の歴史の中で、様々な宗教の中にあって揉まれてきたキリスト教世界特有の洗練された神学を、今の混迷する時代だからこそ、一度はしっかりと聖書を読んで学んだほうがいいのではないかと思う。

10代しゃべり場とか、ガチンコファイトクラブのような

10代しゃべり場とかガチンコファイトクラブ、マネーの虎。こういうタイプの人間関係の距離感って、結局SNSの台頭&エコーチェンバー化現象で完全に社会の意識から消えたね。
それぞれが幸せと言いながら(そもそも構造上SNSにネガティブな内容は載せにくい)、価値観の合う人同士でいいねを押しあいつつも、自分のことばかり気にかけて、茹でガエルのようにだんだん人間関係が希薄になっていく状況は、果たして健全な社会なのだろうか? と疑問に思う。
何事もバランスなので、どこかでしっぺ返しがくると思うんだよな。そんなに芸能人じゃあるまいし、毎日アップするくらい幸せなことってなければならないのかとも思うし、映画やショービジネスではないんだから、人生ってそこまで人に見られるためにあるのかな?と思う。渦中にいると見えにくいんだけどね。こういう構造って。
なんかこういう無言のプレッシャーみたいなのって、肌感覚的に最近、加速しているように思うな。最近ヘレニズム主義からヘブル主義へと軸足を変えていったのもこういう問題意識が背景にあるし、そういう意味で、汝の敵を愛することって大事だと思う。エコーチェンバーの外の世界も見れるしね。
念のため茹でガエル理論
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/茹でガエル

SNSによる社会の分断化と、エクレシアの形成

現代におけるエコーチェンバーに見られるような社会における分断化の課題は、SNSの台頭によってもたらされている。
Facebook自身も、こうしたエコーチェンバーの課題をやはり強く意識していて、15年間変わらずあった「世界をよりオープンにし、つなげる」だったミッションを、2017年には「世界のつながりをより密に」「コミュニティづくりを応援し、人と人がより身近になる世界を実現する」2019年には、「よりプライバシーを重視したプラットフォーム」と変更され続けている。2019年のミッションは明らかに特にアメリカで中心に起こったユーザーデータの扱いへの批判を受けてのことだと思うが、ある意味、SNSの設計思想自体が迷走しているのだと思う。
ザッカーバーグによると「リビングルームで親密な話をしたがっていることが分かった。それがこれからのネットだ」というのが2019年時点での認識。しかし、これはむしろエコーチェンバー化をより加速させてしまう認識なのではないかとも思う。
結局この課題を超えるには、SNSの抽象度を超える枠組みを取り入れていくしかない。それは、「汝の敵を愛せよ」「無償の愛」「献身」の思想に基づく、エクレシア形成にこそあると思っている。

現代のマモン崇拝(お金という偶像崇拝)

そもそも資本主義とプロテスタンティズムの関係性を理解していないと、ただの拝金主義(マモン崇拝・お金というものの偶像崇拝)になってしまう。そもそも戦後の日本は多かれ少なかれこうしたマモン崇拝にあったのだと思う。今のエコーチェンバー化する群発カルトの問題も、こうしたマモン崇拝が背景にあって、非常に危険な状態にあると思う。一人でも多く、こうした日本のニューエイジムーブメントが今陥ろうとしている危険な兆候に気が付いて、大きな問題が起こる前に危険を察して事前に防いでほしいと思う。
「思慮深い人は災難が来ると見れば身を隠す。浅はかな者は通り抜けようとして痛い目に遭う。 主を畏れて身を低くすれば/富も名誉も命も従って来る。 曲がった道には茨と罠。そこから遠ざかる人は自分の魂を守る。」
箴言 序 22:3-5 新共同訳

日本におけるキリスト教受容について

日本におけるキリスト教の受容について考えるとき、昔(地域によってはいまも)海外旅行に行く時に変圧器や変換アダプターが必要だったように、聖書の世界を紹介する時(特に個人の生活に適応する時)は、いったん概念や言葉の変圧器が必要だなと思う。特に多神教国家の日本においては、一神教の世界というのは、非常に誤解を受けやすいし、あまりにも文脈が違うので、変換アダプターや、変圧器が必要。日本の牧師の役割は、こういう異文化受容のための変圧器としての役割、自覚が求められるのだと思う。
そういう意味で日本における新しい内村鑑三のような存在にならないといけないなと思う。主の栄光を讃えるために献身に励みたい。
いきなり聖書を読んでも、言うなれば、コンセントの形や電圧が違うので、そのままだと動かないんだと思う。占星術などの場合は、そもそも惑星という地球どこから見ても同じ共通の天体があるため、これが変換アダプターになるんだよね。
じゃぁ聖書における変換アダプターとは?それは「無償の愛」という概念でしかありえない。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」
‭‭コリントの信徒への手紙一‬ ‭13:4-10‬ ‭新共同訳‬‬
「普遍的な無償の愛の価値観」これが、個人生活の適応において、重要な変換器になる。
そういう意味で聖書の読み方の個人的なアドバイス、生活の適応こそが、今僕がやるべきことなんだなと思う。結局自分とイエス様との個人的な関係を結んでいくことが確実な救いになるので。そういう意味で日本の場合は、海外では一般的にうまくいく教会主義は、むしろアダプターとして機能せず、むしろこうした無教会主義の牧師が、個人的な相談に乗って、イエス様と自分とを直接繋げてくれる媒介役に集中した方がいいのだと思う。
結局言語的障壁、文化的障壁というよりも、イエス様との「個人的な媒介役」が必要。救いにおいて、重要なのは福音の三要素を信じることであって、教会主義はむしろ日本では本来の目的と逆の効果を持ってしまっている部分があると思う。
占いやカウンセリングに行くよりも、まずは聖書を開いて直接主に尋ねたり、牧師に相談した方がいいという欧米圏での一般的な常識を、こうした個人的な媒介役として、もっと日本でもうまく受容できればいいなと思う。
占星術家だった時代に、海外に行くと、海外の占星術家に言われたのは、「お前の国では、占星術家というとさけずまれないのか?ということだった。その時にはあまり意味がわからなかったのだが、キリスト教圏では占いはサタンの影響下にありそれに頼ることは禁忌であることは常識となっていて、そういう考えと常に占星術家は戦っていた。日本にはこういう緊張は全くない。今となってはよくわかるが、確かに占星術よりも聖書の世界の方がずっと霊的に完成されているため、たしかに海外の感覚はたしかに正しい。そして海外の占星術の世界もあくまで意識的であろうが無意識的であろうがキリスト教的なベースの上に成り立っているからこそ、サタンの影響が入らないようにという緊張の中で学問化、客観化されてきていると言える。
旧約聖書においても、占いは、厳しく禁止されている。
「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、 呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。 これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。」
申命記 18:10-12 新共同訳
また、新約聖書においても、占いは、禁忌とされている。つまり、キリスト教世界において占いは禁忌ということは、海外における常識であって、もちろん占星術師もそれを意識して、いかに占いではなく、学問、心理学なのかという形でアカデミック化していこうとする歴史的背景がある。
「わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。 彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」 彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。 ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。」
使徒言行録 16:16-19 新共同訳
また海外の占星術家と触れてよく言われたのが、アメリカではそもそも占星術家はもちろんのこと、カウンセリングよりも、だいたい何かに悩んだ時も、最初は皆教会に行って牧師に相談して解決しちゃう。だからすごく大変だ、と言っていた。占星術師の視点から見るとたしかにそうなんだが、逆にいうと牧師の役割ってすごく大きいという意味でもある。海外だと逆にそうやって機能していない教会の受け皿としてカウンセリングや、時によって占星術師がいると言えるのだと思う。
海外から直接ニューエイジ や占星術を点で受容しているがためにこの辺の面的な常識が日本には受容されていない。この辺りは今後の活動において非常に重要な要素になっていると思う。
日本はようは、悩んだ時に、「お寺や神社に行ってお坊さん、神主に相談しよう」とはならないからね。なので神様や仏様にお参りに行くし、そういう存在の具体的な声を知りたいという感覚で、占い師や霊能者、最近だとカウンセラーに相談するのだと思う。しかしそもそも占い師や霊能者、カウンセラーが確かな救済神学に基づいているかというと、そもそもその背景にある神学は、あくまでサタニックな影響を防げない教理的な欠陥構造を持っているニューエイジ 的なもの、あるいは神の存在を前提にしない自力救済の心理学になってしまうんだよね。
しかも今は特にSNSの時代で誰しもが自称カウンセラー、占い師として、こうしたサタニックな影響を防げないニューエイジ 的な神学に無自覚で、プチオウム(オウムもニューエイジ の影響下にあった)のような、エコーチェンバー化した集団による、カルト的被害が拡大していってしまっているのが日本の現状だと言える。

主を畏れることは知恵の初め(箴言1章7節)

今の時代は、1990年代に叫ばれていた自己実現という意味においては、すでにある程度SNSによって、かつては見えなかった人と人との繋がりや、心の内側が可視化されるようになったことで、所属の欲求、承認の欲求と、自己実現欲求が満たされる時代が来た。と同時に、個人における幸せの抽象次元があがるごとに、そもそも人間の共同体はなぜ存在するのかという根源的な問いに向き合っていくことになる。
言い換えるならば、「個々人の幸せの最大化は、果たして社会全体の幸せの最大化になるのだろうか?」という問いにぶつかる。昨今のエコーチェンバー型の問題や、中年の引きこもりの問題(80-50問題)が呈示していること、それは、単純な個の幸せの最大化は、むしろ社会的な分断を生み出しているのではないかという問いにあるといえる。
体の次元、心の次元、魂の次元と、幸せの抽象度がどんどん上がっていくことで、逆にかつては見えていなかった、霊の次元、神の次元といった壁が見えるようになってきたともいえる。
魂における欲求が満たされる時代が来ているからこそ、各々の「信念体系」による壁が見え始めてきているといえる。これは、個人における幸せの最大化の先にあるもので、ある意味自分が持つ「信念体形」による囚われの世界だともいえる。この「信念体系」の世界は、幸せになればなるほど、周囲と分断されていくという不思議な現象が起こる。この信念体系によってできる壁は、「汝の敵を愛せよ」という形でしか超えることはできない。
また、同時にこうした社会的分断によってもたらされる霊的な渇きは、個の幸せゆえに居心地がいいエコーチェンバーから抜け出す理由を作り出し、エコーチェンバーの外にある人間関係や、どの信念体験にも共通して存在するような「共通項」「普遍的な善」「一つの神」を求める動機をもたらす。これは一言でいうと「愛」ということだろう。この時初めて、人の意識は、個とは全く異なる、超越してまなざす主の視点を持ちうるようになるのだと思う。その時、初めて主というものが、人とは異なる次元にあるものだということが見えてくる。人は、決して、自分が創造主ではないということに気づく。
自らの信念体系にとらわれて、自分の世界を形作り、自らの世界がエコーチェンバー化していく中で、自分こそが創造主だと勘違いしてしまう躓きは、旧約聖書の時代では、幾度となく主の怒りに触れ、砕かれている。へブル的視点で見ていったときには、自らの信念体形にとらわれているときにこそ、主の怒りと戒めの働きが訪れる。エコーチェンバー化する今の時代は、創造主と被造物は別のものであるという神学的な事実が、ある意味明らかになっていく時代だともいえる。ゆえに、こうしたエコーチェンバー化した後に、実体験として砕かれるよりも、最初から聖書を学ぶことによって、主によって砕かれるという経験が非常に重要になるのだと思う。
「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」
箴言 序 1:7 新共同訳

汝の敵を愛せよ

https://news.tbs.co.jp/sp/newseye/tbs_newseye3690207.htm?fbclid=IwAR1TRnzRogI1G2ebECYh1OIwwRN7m2_IrDpS5ceovdS3UIOGqOOhmZ9zywQ
こういうエコーチェンバー化による社会の分断を解決する方法は、SNSの背景にある「友達の友達は友達」「同じ興味関心を持っている人同士が繋がることは価値がある」という思想を、一度振り返って、「汝の敵を愛せよ」という思想に基づいてシステムを作っていくことが、今後大事なんだと思う。そもそもSNSを中心としたメタ的なシステムが生み出している問題なので、何も政治的な領域だけに限らず、考えられうるほぼすべての分野でこうしたエコーチェンバー化は起きている。どんな時代にも科学が暴走して歯止めが利かなくなっていくように、ある種、システムの暴走が今の背景にはあるんだよな。しかも善かれとおもって作ったシステムが、暴走するということはよくある。
「「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」」
ルカによる福音書 6:27-36 新共同訳

汝の敵を愛すること

やはりエコーチェンバー化しないためには、「汝の敵を愛せ」に尽きるんだと思う。同じ意見を持っている人だけ集ったところで、最終的にはその中でも「犠牲の愛」「献身」がなければ、結果的に分離は進み、さらに個人主義の極へと移動していく。「自分を愛する」だけだと、非常に危険。主を愛するという視点がとても大事。
ある意味イエスキリストの教えって、めいめいが正しいと思うことをして、社会が分離していっていたヘレニズムの時代に、違いを超えて繋がる方法を、主の御言葉を通じて示したもの。こうしたことが全ての人にとって啓示された言葉として今の時代にあることは非常にありがいなと思う。主イエスキリストの御名においてお祈りします。アーメン。
「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」」
‭‭ルカによる福音書‬ ‭6:20-26‬ ‭新共同訳‬‬

【ベツレヘムの星便り】400年の時を超えて、動き出す「愛と目覚めの物語」



◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)


 2019/6/9                  355号


こんにちは、杉本譲治(旧:ユピテルジョージ)です。
いかがお過ごしでしょうか。
メールマガジンの名前が変わってしまって、驚く方も多いかもしれません。
先週のメルマガにてお伝えしたのですが、この2019年6月から、
西洋占星術師ユピテルジョージとしての活動を、全て終了し、
これから一人のクリスチャン杉本譲治として、
皆様に、メッセージをお届けすることを決意しました。
▼週間占い、および、新月満月占い終了のお知らせ
http://www.ondorinohane.com/blog/2019/06/post_1359.php
といっても、皆様に届けるメッセージはこれからも変わらず、
愛を込めた、この高度に情報化した時代を心豊かに生きるための秘訣を、
お届けしていくというコンセプトは何も変わりません。
セラピストとしての活動開始から12年。
気づけば、僕がスタートした時には考えられないくらい、
スピリチャルな世界は、
日本でも広く受け入れられるようになりましたね。
しかしその一方で、日本が欧米から受容した
現在のスピリチャリティの文化は、現時点では、
全くもって不完全なものであると
言わざるを得ない「致命的な盲点」があります。
それは、欧米ではあらゆる全ての常識であるところの
「キリスト教への正しい理解」が、
日本のスピリチャリティにおいては、
あまりにも、すっぽりと抜け落ちてしまっているということです。
12星座占い、ホロスコープ、新月や満月占い、
引き寄せの法則、原因と結果の法則など、
日本が受容している占星術などを始めとした
ニューエイジ的なスピリチャリティは、
本来の海外の正当な霊性文化から見たときには、
あくまで「本流ではない亜流のスピリチャリティ」であって、
真の意味での多くの人の人生を救う本家本丸は、
「キリスト教」にあります。
そもそも占いは、キリスト教においては、
厳しく禁じられていることはご存知でしょうか。
欧米における占星術師やニューエイジャーはこうした
キリスト教世界の枠組みの中で、あくまで「カウンターカルチャー」
として形成されてきた文化なのです。
それが日本に入ってきた段階で、こうした前提が崩れてしまっているのです。
このことは、日本のスピリチャリティ受容において、
全く持って、看過できない「盲点」ですし、
このままいくと、むしろ日本のスピリチャリティは、
SNSにおけるエコーチェンバー化などもあいまって、
かつてのオウム真理教事件のように、
再び危ない方向に進んでしまう可能性も充分にあるとさえ、感じています。
本来、キリスト教というものは、2000年前に西洋文明の中で
それまでの宗教が持っていた様々な問題点を乗り越えるべくして成就した
非常に完成度の高い救いの教理でした。
そして、その後、世界中の3割の人が信じ、
様々な人種や文化を超えて受け入れられるほど
普遍性の高い教えだったのです。
しかし、驚くべきことに、そうした世界の状況と比較して、
いまだ日本のクリスチャン人口は、
全体のわずか「1パーセント」しかいません。
そう、400年もの年月を経ても、この数字はほとんど変わらず、
ずっと「1パーセント」のままなのです。
これは、驚くべき数字だといえるでしょう。
なぜここまで日本におけるキリスト教受容は遅れてしまったのでしょうか?
それには、江戸時代初期の鎖国政策が大きく影響しています。
フランシスコザビエルによるキリスト教伝来から約400年間にわたって、
日本は、キリスト教の受容を実質的に拒み続けてきたのです。
科学や、自由民権運動などは、明治維新とともに
人々の間に受け入れられて、今や欧米世界と比べても、
その差異はほとんど感じないほどまで
追い付きました。しかし、スピリチャリティにおける、
世界ではスタンダードだといえる、キリスト教的考え方の受容は、
キリスト教が禁教だった時代から考えても、人々の意識は、
ほとんど何も変わっていないのです。
例えば、いまの日本の霊性においても、
諸外国から心理学が受容され、「自分を愛する」ということが
盛んにいわれるようになりました。
しかし、そもそも、果たしてどれくらいの人が、
「キリストの十字架における死と復活による原罪の贖い」
「アガペー(無償の主の愛)」というような、
欧米ではあらゆるすべての文化の前提条件となっている
「キリスト教的な愛に関する前提知識」を持っているのでしょうか。
あるいは、例えば、欧米では商習慣の前提となる「契約」という概念について
日本人はとても疎いといわれています。この契約という概念も、
もともとは旧約聖書がルーツにある考え方です。
ユダヤ人が商売が得意という背景も、旧約聖書の世界や歴史を
しっかりと理解しないとなかなか本質的には理解できません。
また、旧約聖書における「アブラハム契約」や「シナイ契約(十戒)」という
ものを知らなければ、なぜ欧米の人が、「罪と罰」という概念を重んじ、
またそれと同時に「赦しの愛(無償の愛)」の概念が存在するかも、
分かりにくいのです。
人類学者ベネディクトが「菊と刀」の中で述べたように、
欧米が「罪」を中心として考える文化であるのに対し、
日本人は集団的な圧力をベースとした「恥」を中心とする文化なのです。
こうした、聖書や、キリスト教の正しい知識抜きに、
どれだけ欧米から入ってくる霊的文化を受容したところで、
本当の意味での理解には遠く及びませんし、
また、そのようなところにどれだけニューエイジ的な思想や、
心理学的な愛の概念を取り入れようとしても、
日本の霊性の開花は、永遠にやってこないでしょう。
あくまで日本人の愛とは、どこまでいっても「和」「情」の延長線上にあるも
のであり、キリスト教の理解抜きに、決して心理学やスピリチャリティでいう
ところの「無償の愛」の理解に到達することはないのです。
僕のこれからの役割は、この江戸初期から約400年間もの間
時が止まってしまっている状況を打破して、
日本のスピリチャリティにおいて「正しいキリスト教理解」
を伝え、「愛」や「赦し」に関する理解をより深めていくことにあります。
さて、新約聖書の世界では、
「ベツレヘムの星に導かれた東邦の三賢者」という物語で、
これから私が皆様にお伝えしていく
バビロニアの神学である占星術から、完成された救いとしての、
主イエスキリストへの信仰へのシフトが象徴的に描かれています。


★マタイによる福音書 2:1-12 新共同訳


イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。
そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。
わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。
エルサレムの人々も皆、同様であった。
王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、
メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
彼らは言った。
「ユダヤのベツレヘムです。
預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、
星の現れた時期を確かめた。
そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、
見つかったら知らせてくれ。
わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、
東方で見た星が先立って進み、
ついに幼子のいる場所の上に止まった。
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。
彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、
黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、
別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」
(マタイによる福音書 2:1-12 新共同訳)


この物語は、
バビロニアを中心として発達した占星術を使った王政の時代が終わりを遂げ、
キリスト教という、万人のための救いの教理が、誕生したことを
告げ知らせてています。
東邦の三賢者、つまりバビロニアの占星術師たちが、
「ひれ伏して幼子を拝んだ」という記述も
この「星」から「イエスキリスト」へという、
根本的な変化を、象徴的に語った言葉なのです。
今回のリニューアルにあわせて【今週の星便り】から、
【ベツレヘムの星便り】へと、新しく名前を変えたのには理由があります。
僕自身、これまでの12年の活動の中で、前回もお伝えした通り、占星術を使っ
た救いには限界があることを、深く悟りました。
そして、これにはそもそも、日本のスピリチャリティにおいて、江戸時代の鎖
国から綿々と続いているキリスト教への誤解があることが、年々理解できるよ
うになっていったのです。
そして、深々と、ひれ伏して幼子を拝む東邦の三賢者のように、「主イエスキ
リストの御言葉」こそ、これからの日本の霊性改革の本家本丸になることを深
く予感しているのです。
また、旧約聖書の中で、イエスキリストの到来について預言されているイザヤ
書においても、イエスキリストの再臨に際して、日本における霊性の目覚めが
あるということについて記述されている箇所があります。


★イザヤ書24章15節 共同訳


「それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び/海の島々でも、イスラエルの
神、主の御名を尊べ。 地の果てから、歌声が聞こえる。「主に従う人に誉れ
あれ」と。」


このイザヤ書の「東の地」「海の島々」は日本を指しているという説が以前よ
り根強くあります。
その意味でも、私たち日本人が正しく聖書の世界を理解し始め、霊的な目覚め
を遂げていくことは、何も日本だけの意識改革にとどまることなく、これから
世界中に大きな影響を与えていくといえるのです。
こうしたテーマを深いベースに据えながら、今回新しく生まれ変わった【ベツ
レヘムの星便り】では、日本がこれまで400年にわたって取りこぼしてきたキ
リスト教や聖書のエッセンスを、皆様に分かりやすくお伝えしていきたいと思
っています。
このことによって、何よりあなた自身が、私自身が感じてきたような「救われ
る感覚」を感じられるようになっていくと思います。聖書はあらゆる世界にお
いて、いつの時代にも、人々の心を勇気づけ、慰め、常に寄り添ってきた神の
言葉だからです。
これから心を込めて書いてまいりたいと思います。ぜひ、これからもご愛読の
ほどをよろしくお願いいたします。
なお、これまでは月曜日配信でしたが、今回から日曜日配信となります。これ
はキリスト教においては、人々は日曜日に教会に集まり、主に祈る習慣がある
からです。これを安息日といいます。その意味で、このベツレヘムの星便りが、
あなたにとって一つの「不可視の教会」であり、また「安息日の祈りのための
書簡」になればという思いを込めています。
ペンテコステの日である今日、主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交
わりが、あなたがたすべてとともにありますように。アーメン。


杉本譲治メールマガジン【ベツレヘムの星便り】
発行者:杉本譲治(旧:ユピテルジョージ)


▽今週もあなたにとって素敵な1週間になりますように。
父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。


(c)2019 GEORGE SUGIMOTO All Rights Reserved.

セルフブランディングという自己崇拝と、資本主義的な価値観

エコーチェンバー化して関係性が分断され、細分化していく流れを食い止める方法がわかってきた。やはり「友だちの友だちは友だち」「自分を愛することが大事」なんじゃなくて、「犠牲の愛、献身の愛」「汝の敵を愛せよ」というクリスチャ二ティが1番大事。結局自分の罪や、人の罪を赦さない限り、人間関係はうまくいかないよ。信頼って実直な愛あるコミュニケーションの中でしか生まれない。
特にSNSがインフラ化する社会においては、アフォーダンスとして気づかない間に人の考え方は「セルフブランディング」的発想に向かうし、自ずと自己崇拝的コミュニケーションになっちゃうんだよね。よくない、よくない。
商用利用可能になったアメブロとかが顕著なんだけど、このセルフブランディングの文脈に、さらに資本主義的価値観が組み込まれる。そもそも自己啓発的やニューエイジ的文脈が定義するほど、等身大の人間そのものには価値がないわけで(聖書的な原罪の概念)、商品化、パッケージ化されたセルフイメージは自ずと実体経済(本来の価値)から離れてバブルへと向かわせ、そのうちそうしたバブルは崩壊する。バブル期の土地神話みたいな感じで、自己が持つ価値を過大評価しすぎているんだよな。皆がだれも疑わないような熱狂の中にある時には気づかないけど、冷静になればよくわかるはず。
そもそも人の価値の中心を経済的尺度に持って行くこと自体に無理がある。経済的な価値によって測れる人間的な価値は、あくまで周辺的なものであって、中心ではない。そういう意味で聖書的な意味で等身大の罪人である自分を、受け入れ、悔い改めたほうがずっとシンプルに、健全に生きられる。人間性心理学と、SNSの構造がある意味相性がいいため、バブル期の土地神話のような変なバブル現象を引き起こしているんだよな。まぁ、こうしたバブル構造も、エコーチェンバー化してるから、バブルの真っ最中に、周囲から伝えても気づきにくいんだけどね。
やっぱクリスチャニティの精神で表現されるような、「犠牲の愛、献身の愛」「汝の敵を愛せよ」といった誠実なコミュニケーションが、一番なんだと思う。
「富に依存する者は倒れる。神に従う人は木の葉のように茂る。」
‭‭箴言 序‬ ‭11:28‬ ‭新共同訳‬‬

週間占い、および、新月の願いごとと満月のリリースのワークの終了のお知らせ

こんにちは、ユピテルジョージです。いかがお過ごしでしょうか。
今日は、週間占い、新月の願いごとと満月のリリースのワークの終了について、
皆様に大切なメッセージをお知らせします。
ちょうど、今月で、活動開始から12年になります。
この12年の間にも、西洋占星術師として、セラピストとして、
神秘学の研究者として、実に様々な経験をしてきました。
今年に入ってから、これまでの12年間を振り返りながら、
できたこと、できなかったことなどを整理し、
じっくりと自分の人生の方向性を考えてきました。
そこで、先月あたりくらいから、ゆるぎない自分の確信として、
人生のかじ取りを大きく変えていくことを決断しました。
それは、西洋占星術師を辞めて、自分自身のより深い部分にある
ルーツである、聖書やキリスト教の世界を伝えていくことです。
そして、イエスキリストが伝えた「無償の愛」とはどのようなものなのか
ということについて伝えていくことを、
今後の活動の軸に据えていくことにしました。
こうして決めた背景には、様々な理由がありますが、
まず私にとって一番大きいことは、
占いや、神秘学には、人を導く上で、
限界があるということを、痛切に感じることが増えてきたことです。
自分自身もセラピストや占星術師の育成に長年携わってきたので、
自分の人生は、自分一人の人生ということだけでなく、
セラピーや占星術の世界に対する責任があると思って常に活動してきました。
特にこの5年ほどで強く実感するようになったのですが、
SNSの発達などによって、 10年前に比べて、情報発信は格段に楽になり、
セラピストとして、占い師として発信するハードルが下がったことで、
必ずしも倫理的、霊的に正しいと思えないような玉石混交の情報が、
ネット上に蔓延するようになってしまっていることに危機感を持ってきました。
そして、少なからず、自分自身の歩みを振り返ってみたときに、
こうした流れに、何よりも自分自身が参画していたのではないかという
深い反省があります。
どれだけ、自分が正しいと思う表現をしていたとしても、
人間である以上、発言や生き方にもぶれが生じますし、
また、伝言ゲームのように言葉が広がる過程の中で、
同じことを表現しているようでいても、
全く異質な言葉になってしまうこともあります。
特に、僕自身が振り返ってみて思うことは、
これまで12年間、一貫して、「自分を愛すること」がとても大事だという
メッセージを伝えてきました。
しかし、最近のインターネット上での論説の傾向を観ると、
こうした言葉はしばしば「他人を気にしないで自分軸で生きること」
「自分勝手にふるまうこと」という誤った理解をなされてしまうことが
多いんだなということを、振り返って感じ、
こうしたことに胸を痛めることが多くありました。
こうした論調は、エコーチェンバー現象とも呼ばれています。
【エコーチェンバー現象とは】
https://bit.ly/2GJ10nn
本来SNSの登場は、「友達の友達は、友達だ」という思想で作られたものであり、インターネットで多くの人たちとつながるはずだった人々が、
むしろ、SNSの枠組みの中で、価値観の合う人とだけつながるようになり、
異質な考え方を持った他者とのつながりは分断され、
むしろ人々は、孤立していっているのではないかと感じています。
おそらくこうなってしまった背景には、SNSだけでなく、
占いや自己啓発の文脈を作り出す思想そのものに
構造的な欠陥があるという問題に、気づき始めたのです。
こうした最近の流れを見ながら、自分自身の在り方をどのように
正していけばいいかということを、特にこの数年は深く向き合いながら、
考えてきました。
そこで出た答えは、「自分を愛すること」の前提にあるものとして、
そもそも「人を無条件で愛せるようになること」「犠牲の愛の大切さ」を
ダイレクトに伝えていくことの方が大事だということでした。
そして、この思想はどこからくるのだろうと、
自分を深く振り返ってみたときに、明らかになってきたのは、
キリスト教の価値観であり、また、聖書の言葉だったのです。
僕自身が、聖書の世界と初めて出会ったのは、小学生の時。
学校の近くで、いつも近くの教会の人が、紙芝居をもって
聖書の話をしてくださっていました。
よく考えてみると、この時に、僕自身は、
「人を無条件で愛すること」の大切さ
「汝の敵を愛せよ」という言葉の重みを深く学んでいました。
ある意味この経験がなければ、自分の人生を投げうってでも、
人助けの人生にしていこうとは思わなかったと思います。
結果的に、聖書という「無条件の愛」の概念を示す
自分にとっての根本的なルーツに行きつくまでは、
仏教、神道、東洋占、風水、西洋占星術、心理学、量子力学など、
様々なことを学んできました。
しかし、最終的に、一番伝えたい大事な言葉は、
全て聖書の中の主イエスキリストの言葉であるということに、
深く確信に至りました。
僕自身はカソリックやプロテスタント、正教会、福音派など、
どこか特定の教会、教派に属しているわけではなく、
またいわゆる受洗(バプテスマ)をしているわけでもありません。
しかし、聖書の研究を進め、深めるにしたがって、
日本独自のクリスチャンの在り方を模索し、無教会主義という形を見出した
内村鑑三のように、日本には日本らしいクリスチャンとしての在り方が
あるのではないかということを深く感じる機会が増えてきました。
【内村鑑三】
https://bit.ly/2WIrob4
しかし、こうして自分自身が主イエスキリストを信じ、クリスチャンの価値観に基づいて生きてきたことを、公に告白するのは、今回が初めてです。この数年自分の人生を在り方を振り返ってじっくり内観していったときに、小さいころから、私は主イエスキリストを、自分の救い主として受け入れてきたということに気づいたのです。
と同時に、聖書の世界においては、占いは禁忌でもあります。これまで2007年のスタートから、なるべく「占い」的なものにならないように、心理学や、神智学、量子力学などの学問的なベースを大切にして、「信じる占いではない、使う新しい占い」というコンセプトで、活動してきました。占いではないよ、という気持ちではあったのです。
しかし、やはりよくよく考えてみると、自分がやっていることは、占いに他ならないわけです。また、聖書的神学を学べば学ぶほどに、まったくこうした占いの言葉は、人が霊的に正しい生き方をする時に必要がないばかりか、しばしば誤ったメッセージを伝えてしまうことも、深く感じるようになり、悔い改めていくことになっていったのです。
こうした背景から、私自身、この2019年6月をもって、占星術師ユピテルジョージとしての歩みを終えて、一人のクリスチャン杉本譲治として生きていくことを決断しました。杉本譲治というのは私の本名です。
といっても、基本的にこの12年間皆様に愛を込めてメッセージを届けてきた事実には何も変わりがないですし、むしろ、これからは一人のクリスチャンとして、皆さんのために仕える僕(しもべ)として生きられるということに喜びを感じています。
また、「占い」を求められてきた人にとっても、満足いくような「人生の指針」を、聖書の言葉でどのように伝えていけるだろうかというのが、僕自身の人生における新しいチャレンジでもあります。
週間占いや、今週の星便りも、おかげさまで長年にわたって愛され続けてきたコンテンツですが、これからは占いという形を終焉させ、抜本的に発信の内容が変わっていくことになると思います。しかし、変わらない姿勢は、「一人の人間として、皆さんに、自分の言葉で愛を込めて伝えていくこと」です。
日本人にとって聖書やキリスト教は、あまりなじみのない文化だと思います。そこで、ユピテルさんどうしちゃったんだろうと、不思議に思われたり、時には不審に思われることもあるかもしれません。しかし、一貫して、愛をもって伝えていけば、きっといつかは伝わるかなと信じております。
これから私にとって、新しいスタートになりますが、このメルマガや、週間占いも、一度これまでの発信方法を見直し、新しい時代にあった人生の指針となるメッセージをこれからも伝えていきたいと思います。
こうした理由から、一度、この週間占いや満月・新月占いの更新は終了とさせていただきます。これからの活動についてはブログや、メルマガ「今週の星便り」などで随時お伝えしていきます。色々活動の方向性がきれいにまとまってくるのは、おそらく半年くらいはかかるかなと思いますが、お付き合いいただければ幸いです。
何はともあれ、これまで12年間の長きにわたって週間占いや占星術の続けてこれたのも、皆さんのおかげです。皆さんのご愛読、ご愛顧に深く感謝するとともに、これからもよろしくお願いします。
最後に、聖書の中から、キリスト教の信仰の根底にある「隣人愛」についての大切なメッセージを引用します。
「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。
預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
コリントの信徒への手紙一 13:1-13 新共同訳
これまでご愛読してくださった、皆さんに心から感謝申し上げます。これからも、皆さんに深い愛のメッセージを伝えていけるように、主が見守ってくださいますように。主イエスキリストの御名においてお祈りいたします。アーメン。

メタ宗教としてのキリスト教の本当の価値

パウロにしても、アウグスティヌスにしても、偉大な神学者、教父たちはそもそも、最初は異教徒なんだよね。パウロはパリサイ派ユダヤ人だったし、アウグスティヌスはマニ教(今でいう神智学)だった。そこからキリスト教に回心していったということも、ある意味宗教をメタ化した先にメタ宗教としてのキリスト教があったからで、シンクレティズムの試みはあくまでメタではなく、ベタ的な試みで、宗教をメタ化するという方向性に進まないと、本当の救いは見えてこないということ。つまりニューエイジやスピリチャルでは人は救われないし、メタ宗教としてのキリスト教の本当の価値を理解しないと、真の意味での救済は不可能であるということを、学ばないといけない。
頭がいい人であればあるほど、物事をメタ的に認知していきたいと考えるので、シンクレティズム的欲求に基づいて比較宗教学を研究するし、心優しければ優しいほど、技による救いをベースとした教理に基づいて、活動をしていく中で、技による救いの教理では、関わる「すべての人」を救えないという葛藤を感じ、その中で主に対する自分の傲慢さに気づかざるを得ない。
つまり、最終的に技による救いをベースとした教理だと、必ず自己矛盾に陥り、最終的にイエスキリストを救い主として受け入れることのみでしか、救われないことを悟るのだと思う。これから日本人の間の中にも、エコーチェンバー型群発カルトに嫌気がさした人や、技による救いをベースとした教理と救済論が両立しえないという自己矛盾を感じて行き詰まりを感じた人の中から、そもそもメタ宗教としてのキリスト教のメッセージをダイレクトに理解ができるようになって、悔い改める人は増えてくるんじゃないかな。
いうなれば2000年前ヘレニズム的な多神教的世界観の中で生まれたキリスト教は、彼ら自身の意識で言うと、「宗教 ver.2.0」という感じだったのだと思う。ゆえに、異教徒を中心に広がっていったし、十字架での贖いから、わずか30年でローマの国教になったんだよね。世界中に広がる理由も、「宗教 ver.2.0」という構造にあったからだといえる。
またパウロもアウグスティヌスも、異教徒からスタートして、そこで自分の「宗教 ver1.0」における罪を深く認識したうえで悔い改めているので、その分、主からの愛を深く感じて、より熱心に「宗教 ver.2.0」を広げていったといえる。罪の意識や、悔い改めが深ければ深いほど、主の恵みによる愛を深く実感できるし、その分人を深く愛することができる。
ニューエイジ的な思想を突き進んでしまっている人には、僕自身からも、批判ではなく、愛によって、悔い改めの大切さを伝えていきたいと深く思う。現在のエコーチェンバー型カルト現象に見られるように、ニューエイジ的な思想の行き着く先は、これまでの人類の歴史が証明してきているように、自分の身を滅ぼしてしまうのだから。