「ゴッドファーザー」とクリスチャニティの精神

映画「ゴッドファーザー」の中でさえクリスチャニティ の精神は現れる。否、正確にはマフィア映画の「中だからこそ」と言ったほうがいい。クリスチャニティ は自らを義人と思う人のためのものではなく、罪人のための教えだからだ。どんな悪人においても、人格の上に人生を積み上げていける理由は、イエス様の十字架の贖いという霊的な儀式の執り行いがあるからだ。そもそもゴッドファーザーという言葉や概念自体が、カソリック の洗礼式の習慣から来ている。
マーロンブランド演じるヴィトーコルレオーネは、正義を「戦いのなかで振りかざす剣」と捉えず、「平和のうちに撒く種」と捉えた。それゆえ人々は彼の蒔く正義という種に従った。父親の正義を、戦いの中で振りかざす剣として捉え始めた段階で、アルパチーノ演じるマイケルはどんどん転落していくことになる。
いまの50代以降の方々が口々に言う「昭和の大物像」はまさにこのヴィトーコルレオーネが示す元型そのものである。そこにはすでにどんな罪人でも十字架の贖い故に義とされる神の慈しみ深き愛と、平和のなかに蒔かれる正義の種という共通する性質がある。現代的ポリコレや、ニューエイジ 思想のなかで小さくまとまった自己義認の器とは大きく異なる。その背景にはやはり主イエスキリスト がおられる。アーメン。

「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。」
(ヤコブの手紙 3章18節 新改訳2017)

結局こういう作品の中に現れるような人間的な「器」こそ、経営者に求めらられる資質になるのだと思う。こういう失われてしまった精神を僕の世代から復興していくことが、リバイバルだといえる。アーメン。

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