聖書学

そもそもキリスト教というから抵抗感が生まれるわけで、「聖書学」といえばいいし、実際プロテスタントの信仰の本質は、聖書学にこそある。この辺がうまいのは、実際にはほとんどマニ教やニューエイジ信仰、呪術的崇拝であるにも関わらず、「文化人類学」「ポストモダン」という言い方をしたことで、実際には単なる信仰であるにもかかわらず、その教義が広がったニューエイジ的信仰形態がある。しかもその本質が宗教であるにもかかわらず、マニ教的、ニューエイジ的信仰は、日本の大学教育の中にも紛れ込むことに成功した。
その意味でも日本宣教において、「聖書学」といったほうがむしろ抵抗感は少なくなると思う。
伝道師がやるべきことは、信仰の強要では全くなく、あくまで「思惟への奉仕」と「証」である。つまり「思惟への奉仕」と「証」とは「聖書学」以外の何物でもない。つまり「聖書学」で十分ではないかということになる。
仏教は前提として、教典を学ぶというフレームがあるので、「思惟への奉仕」と「証」がセットになるし、それを前提に受け入れられているものなので、抵抗がないわけだ。このあたりのプリフレイムやリフレーミングといったセルフプロデュースは、日本のキリスト教世界はもっと自覚的になっていくべきだと思う。

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