社会の十字架を背負うこと

結局のところ、十字架を背負う覚悟があるかどうかが、事業などを大きくしたり、大きい物事を成し遂げていくために大事なことなんだなとしみじみと思う。事業などを行い成功するという意味においても、背景に十字架があるかどうかが、やはり成功要因の大きな違いになるなと。

今の時代の十字架は、確実に「階級社会」にあると思う。ここに対する想像力を持って取り組むことが非常に大事。社会的な接点がなくなっていく上流階級と下流階級という二つの階級は、想像力を持ってしか埋められない溝ができつつある。こうしたリアリティに関する想像力を持つことは、今後非常に重要なテーマになっていくのだと思う。

一億総中流社会の延長線上では、まだ中産階級から上流階級にチャレンジできるという精神が、社会に夢や希望、活力をもたらした。しかし今の時代はむしろその一億総中流社会だった時代が、中流意識というものがなくなりつつある時代に入ってきた。それ故にそうした夢のあり方も再考すべき時代に入ってきている。

僕が大学を卒業した時に背負った十字架のリアリティは、「社会の中で歯車の一つとして生きていくことへの生きにくさ」であった。しかしこのリアリティはその後、SNS社会の到来によって、承認欲求の充足がより低コストに得られる時代(承認欲求を満たすために大きな代償を払わなくて良くなった)の到来で、終焉を迎えた。
その一方で情報の扱いがうまく、お金を生み出す力がある人と、そうでない人との格差が広がり、もはやそれが相互に行き来ができなくなる決定的な違いを持った別々の社会になりつつある。これはますます進展していくと思う。
情報がある人にはより多くの情報がやってきて、そうでない人にはやってこない。こうしたことが、階級をさらに固定していくという社会的な欠陥構造を生み出し続けている。

結局のところこれを乗り越える方法は、イエス様の十字架以外にないと思う。

「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。 また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。」
‭‭ヤコブの手紙‬ ‭1:9-10‬ ‭新共同訳‬‬

イエス様の十字架を通して、私たちは皆神の前で平等であるという考え方が浸透していけば、こうした社会問題も平和に解決していけるだろうと思う。
人間の技術もこの方向に進化していくことを心から願い、祈りたい。

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