福音の伝道師になるということ

そもそもキリスト教は、「宗教的排他主義」をとるわけで、その時点で人の世の価値観からすると「コミュ力が低い」宗教になる。人の世で、相手に対して「お前の価値観は間違えていて、俺の価値観は正しい、なぜなら…」なんていい始めたら、コミュ力以前の問題で、人間関係は破綻する。

そもそも福音の伝道師になるということは、コミュニケーションが、このフレームからのスタートとなる。
僕も福音伝道は常に、自らが心を込めて長年築いてきた人間関係が破たんするかもしれないといつもひやひやしながら活動している。その分、口数も多くなるし、多く語れば語るほど、うざくなる。冷静に考えてみても、嗚呼なんて、うざったいセールスマンなんだ! キリスト教が宗教的排他主義というフレームである以上、誰だってコミュ力の低い人間になるわけだ。

それこそ仏教や神道、スピリチャリズムのとる宗教多元主義は、「あなたのいうことを尊重します」から始まるので、非常に「コミュ力の高い」宗教だ。いや、「コミュ力が高い」というよりも、むしろ相手を尊重することは、コミュニケーションの常識だ。だから人としての常識をわきまえた宗教だ。
ニューエイジの世界も、どの神様が一番なんてないし、いろいろな神様がいてOKだし、自分の好きなものを信じて、ワクワクすることをしようと伝えるわけで、そもそも絶対的な善悪の基準すらもない。ある意味、こんなにコミュ力の高い宗教もないわけだ。

「好意互恵性」は、コミュニケーションの基本だ。人の世の価値観で考えると、そうしたコミュニケーションの基本すらないのが、キリスト教がとる「宗教的排他主義」だといえる。

しかし、非常に興味深いことは、この「コミュ力低い」はずの宗教的排他主義という構造を持つキリスト教が、なぜか世界では30%の人が信じるほどの世界で最も多い宗教にまでなっているのかということ。戦争ばかりして、力でねじ伏せてきたから?いや、そんなことはないということは以前の記事に詳しく書いた。
https://church360vr.com/aboutwars

そして、当時は世界で最も信仰が多かった(つまり当時コミュ力が異常に高かった)現代のニューエイジと非常によく似たマニ教などは、今や見る影もなくなっている。

そして、こんなコミュニケーションにおいてハンデとしか言えないようなフレームであっても、救われたと感じて主に召された人は、皆すすんで福音を伝えていこうと決心する。そしてどんなことがあっても、イエスキリストこそ、主ですと宣言する。たとえ無実の罪で殺されようとも。

そうやって2000年間続いてきたのにはどんな意味があるのだろう?何が人をそこまで燃え上がらせるのだろう?

ここに福音の神秘があるのだと思う。それはこの福音のメッセージが真実であるからに他ならない。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」
ヨハネによる福音書 3:16-18 新共同訳

さぁ、今日も聖霊の炎に燃えながら、十字架を背負って、進んでいきたいと思う。アーメン!

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