当時、宗教ver.2.0として成就したキリスト教の背景

日本人では一般的な宗教観であるところの宗教多元主義は、「どんな宗教も最終的に到達するところは同じだよね」という感覚だといえる。いうなれば猫も犬も、トカゲもヤモリも、全部動物だよねといっているのだが、そもそもキリスト教教理はこれまでの宗教が「技による救い」を中心とした教理だったものを、「信仰のみによる救い(信仰義認)」を純粋な中核に据えた段階で、すでに猫でも犬でも、トカゲでもヤモリでもなく、「動物」という概念そのものが「ひとつの実在する生命体」になっているんだよね。(ゆえにこの「動物」という、「概念そのもの」でありながら「実存する生命体」であるものを、偶像化することは不可能なゆえ、偶像崇拝を禁止し、一神教をとる。また、新約聖書におけるメシアの登場において、それが三位一体の教義となり、完全な人でもあり完全な神でもあるイエスキリストという存在として救いがもたらされた。)
その意味で、宗教多元主義は、キリスト教も含め、全部到達点は同じという場合、猫も、犬も、トカゲも、ヤモリも、「動物」も、全部「動物」なんだよね、というような論理的に考えておかしな構造になってしまっている。キリスト教神学は、技による救いを否定して、信仰のみによる救いを中核とした教理なので、一般的な宗教とはレイヤーが違うんだよね。
グノーシス主義やシンクレティズムは、結局のところ技による救いを普遍化しようとしてできたもので、いうなれば、猫と犬と、トカゲとヤモリのDNAの共通項を探し出して、実験室で培養すれば、「動物」という生命体が生まれるんじゃないかという営みであって、もちろんそんな生命体はできるわけがない。そして、神の一方的な恵みによってもたらされた、新しい宗教2.0が「福音」なわけで、ゆえにかつての宗教1.0と、「混ぜるな危険」であり、「宗教2.0における三位一体の唯一の神を信じることが大切」という教理になるわけだ。決して宗教1.0の存在を否定しているわけではなく、バージョンが違うから互換性がないというだけで、さらに宗教2.0のほうがそもそも人間の知恵が考え抜いた結果導き出したものでは「ない」ために(つまり神が啓示したものであるために)、異様なほど救済論としての完成度が高いのだ。
人がシンクレティズムベースで考えて作る宗教は、あくまでバベルの塔のようなものにすぎない。そして、そうしたグノーシス主義の最終目的は、自分が神になるという浅はかで傲慢な思想に行きついてしまうことになる。

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