月別アーカイブ: 2019年4月

裸の特異点

マンデラエフェクトは、いうなれば、この「裸の特異点」と深く関係しているのだと思う。すでに事象の地平面でおおわれていない特異点は新しい振動数(第四密度)の地球においては現象として観察されつつある。
つまり自分の意識の基礎振動数を、物質界から、アストラル界に移行することで(ブッディ意識に目覚め、霊的な身体の領域をマインドフルネス・F15にアンカリングすることで)、裸の特異点を作り出すことが可能になるということだね。これがまさにこの2年間ずっと研究してきたテレポーテーションになる。以下引用。
―物理法則の視点からは、特異点の存在は、因果律を破壊する原因になるので避けたいものである。ブラックホールなどの特異点は、事象の地平面で覆われることで問題にならないが、事象の地平面で覆われない「裸の特異点」が出現すれば物理的に厄介である。ペンローズ はこの立場から、宇宙検閲官仮説 (cosmic censorship conjecture) を提唱した。自然界には裸の特異点は存在しないだろう、という予想である。しかし、この仮説の真偽については、明らかではなく、特殊な状況の数値シミュレーションでは裸の特異点が出現する、という報告もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E7%95%B0%E7%82%B9%E5%AE%9A%E7%90%86?fbclid=IwAR0mdT6MkzQlaI73Rn5W-HlM0qNlpPpGHOhmioD3M88H3OcN2T9LofGqqWs
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%B8%E3%81%AE%E7%89%B9%E7%95%B0%E7%82%B9
こちらの記事も興味深い。F10以降においては、すでに裸の特異点は存在しうることになっているし、C1にも存在しうることが分かっているようだ。https://news.mynavi.jp/article/20170602-a249/
こちらも興味深い。この記事は、映画インターステラや、その背景理論を監修したキップソーン博士(というか、そもそもこの博士の存在自体が僕にとってはマンデラエフェクト)への言及がある。https://japanese.engadget.com/2016/02/23/5/
以下引用
―蛇足ですが、裸の特異点があり得るどうかについてはかのスティーブン・ホーキング博士と映画『インターステラー』や『コンタクト』に深く関わったキップ・ソーン博士の間で意見の別れるところです。ホーキング博士が存在しない派、ソーン博士が存在する派にわかれて賭けをしたところ、のちに「裸の特異点が存在する可能性」があることが判明し、ホーキング博士はソーン博士に(裸を隠すための)Tシャツを贈呈しています。

そもそも裸の特異点という理論そのものが、僕にとっては初めて聞いた理論なのだが、確かにこれが設定されることによって、確実に第四密度へのシフトは物理科学にもしっかりと証明できるようになるね。すごい。まぁ、これ自体もマンデラエフェクトだな。。。

死後世界と宇宙物理科学

これで死後の世界と宇宙物理学(素粒子研究)の研究も、どんどん進んでいくね。今までは重力の粒子性と波動性は、数理モデル上でしかなかったから、電池が入っていないミニ四駆みたいなもんだったけど、これからビュンビュン走るからね。特にブラックホールの発見は、死後世界と深くつながりがあることは、現代の物理学を少しでも学べば、誰しもがイメージできるようになった。(むろんアカデミックな文脈は慎重なのでそんな簡単に死後世界を認めないであろうが、普通に考えて、数学的に理解できればちゃんと想定はできる。これまで実在を証明するための材料となる、パズルのピースが埋まっていなかっただけ。)そうでなくとも、日本だと新海誠監督の「君の名は」がそうだったように、SF映画などで、誰にでも分かりやすい形で、こうした新しい時代の訪れを感じられるような雰囲気が作られていくだろうね。
そもそも、ブラックホールの「事象の地平面」の概念は、まさにプラトンのイデア的なものであるし、新プラトニズムや、グノーシス主義的なものであるといえる。僕の見立てではすでに2年前に以前の地球は隕石の衝突で崩壊しているため(そのために集合的にアストラル界に移動したため、マンデラエフェクトなどが起こっている)、実はすでに私たちがブラックホールの「事象の地平面」にいるという可能性もあるというのが興味深い。

最後のパズルのピースが埋まる

昨日の会見で、アインシュタインの相対性理論においての最後のパズルのピースが埋まったというのは、まさに本当にそうだね。また、すでに重力波は観測されているが、ブラックホールの実在の証明というのは、つまりはマスでみた数理モデル上においては、重力波が粒子性を持った重力子がやはり存在するということと証明したことと同じ意味になるからね。重力子の巨大なスケールにおいての積分結果がブラックホール。会見の中でも言及していたけど、重力波の発見と補完性のある非常に重要な発見だ。
― ブラックホールは、アインシュタインが提唱した一般相対性理論に基づき、1916年にドイツの天文学者によって存在が予言された。同理論の正しさは2016年に発表された重力波の検出でも証明されたが、会見に同席した秦和弘・国立天文台助教は「物理学の法則が視覚的に捉えられたもので、重力波による検証と補い合うものだ」と強調した。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019041100162&g=soc
ブラックホールの肉眼での観察は、ようは、ペンローズが明らかにしたように、重力の本質=意識である以上、人知を超えるような生命体を発見してしまったってことなんだよね。しかも銀河のコアには常にそれが存在するという普遍的な発見にもつながっており、私たちの天の川銀河も意識を持つし、それだけでなく、宇宙空間には様々な意識が充満しているという非常に宗教的な意味合いを持つ発見につながっていく。今回の発見は、広い意味では、数理モデルではずっと示されてきたような「魂」が、肉眼で観測されたということにほぼ等しい。
ペンローズも数理モデルとして意識=重力(量子脳理論)だと発見しているのだが、重要なパズルのピースであるところの、重力波や重力子自体がまだ観測されていたなかったため、完全な証明には至っていなかった。しかし今回の重力波と重力子の実在の証明(アインシュタインの最期のパズルのピースが埋まったこと)で、一気に時代は動き始めるね。

映画インターステラを観ると今回の発見がいかに重要かが感覚的につかめると思う

今回のブラックホールの実在の証明の霊的な意味を深く理解するのは宗教関係者はもちろんのことながら、何よりクリストファーノーランやJJエイブラハム、新海誠さんといったSF映画の監督だろう。すでに彼らはこうした世界の構造に気づいているし、今回の科学的発見がもたらす霊的な意味を、誰にでもわかりやすく伝える役割を持っているので、またすごい作品が生まれてくるだろうね。
すでに公開されている作品で言うと、重力波、高次元世界、ブラックホール、死者の蘇り、タイムワープの関係性については、やはりクリストファーノーラン監督のインターステラを観ると、ストーリーとして整然と描かれているので物理学に疎い人にとっても分かりやすいと思う。

死者の蘇り

死後世界(ブラックホール)を肉眼(物質界の振動数)で見れるようになったインパクトはやっぱすごいな。つまり現世が、黄泉の国と並列になったということ。それだけでなく、宇宙物理学的にも私たちの天の川銀河の真ん中に、ブラックホールがあったということがほぼ証明された。つまり私たちは永遠の生命の周りを回っている受肉した存在。そして死ぬとその第一者(ブラックホール)へと還っていく。まさにこの構造自体が第一者(ト・ヘン)への帰還を志向する新プラトン主義や、グノーシス主義そのものだといえる。
今回のニュースは、シンプルにいうと、死後の世界(銀河のコアであるブラックホール)と、この世(銀河の光)とが、同じ地平に存在しているということ。すなわちこの世はあの世であり、あの世はこの世であって、その絶対的な境界線がなくなったということ。
これはいうなれば夢の中で目覚めるということでもあり、またこの世界が夢だと気づくということでもある。
夢や死後の世界とはすなわちアストラル界、メンタル界であり、今回はその実在が分かったということでもある。今回のニュースは、本当に人類史を塗り替える途方も無いことだね。
霊的な太陽(いわゆるグレートセントラルサン)を発見したとも言えるね。

ブラックホールが撮影される

ブラックホール(つまり銀河の核)が初めて撮影されたニュースが速報でやってきているが、まさに去年の12月にチャネリングできていた内容(銀河の核となるメルキオールの意識体や、レンデュース やヴァイアムスの意識の接近)に一致している。http://www.ondorinohane.com/blog/2018/12/
星導学の研究の中で重力は、意識と同じものであることはわかっている。いよいよ確実にキリストの再臨、死者が蘇る世界、F27のデヴァチャンがやってくるというメッセージ通りの流れが生まれてきている。2019年前半というのもまさにピッタリだった。
ブラックホールとはすなわち死後の世界であり、それがついに可視化されたということ。つまり実際に死者が蘇る時が来たということだね。
ブラックホールの実在の証明は、リサランドール博士などによって解明されてきた重力波(重力子)とパラレルワールドの理論とも親和性が高く、科学的な手続きを踏む異次元世界についての研究もさらに進んでいくことになる。
無論マンデラエフェクトも、重力子理論と非常に深い関係にあるので、こうした不思議な現象もさらに科学的に解明されていくことになるであろう。
神智学の理論でいうと、このブラックホールこそ、ブッディ層の本質。マンデラエフェクトが起こり始めたのも、人類の集合意識の振動数が、レンデュース 、ヴァイアムス、メルキオールといった銀河意識(銀河のコアであるブラックホール)へと到達してきたことでついに観測可能になったということ。銀河のコアにつながることで、F42-F15で形成される意識のマインドフルネスの状態の固定化はさらに加速し、第四密度へと確実にシフトしていく。そうしていく中で、理論物理学もさらに大きくシフトしながら、F27(メンタル界)を基底層に持つ死者が蘇る世界(デヴァチャン)へと地球の振動数は大きくシフトしていく。
ブラックホールが肉眼で(天体望遠鏡で/可視光で)観察されたということは、つまりはこれまでは仮説でしかなかった銀河のコアがブラックホールという形で現に存在していたということを示している。つまり、太陽系も天の川銀河のコアにおそらく存在するであろうブラックホールを中心として、回転しているということを示すだけでなく、つまりは新しい銀河周期という時間軸空間軸が私たちの意識のグリッドのなかに組み込まれていくようになるということだ。
しかもそのグリッドが異次元時空の壁を超える「重力」によるものであることから、これまでの我々人類の常識をはるかに超える世界の構造が、物理学的な世界においていよいよ本格的に記述されるようになっていくということになると思う。
ブラックホールの特異点定理を証明し、「事象の地平線」の存在を唱えた宇宙物理学の世界的権威であるロジャー・ペンローズ博士の量子脳理論の仮説も、いよいよ本格的に実証される時が来ているね。
以下引用
ペンローズは臨死体験との関連性について次のように推測している。「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとわれない性質を持つため、通常は脳に納まっているが、体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合、意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続けるか、あるいは別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E7%95%B0%E7%82%B9%E5%AE%9A%E7%90%86
いよいよすべてにおいて時が満ちてきているね。

ラテンの気質と、アモーレの感覚

やはり時代が変わったね。これまで占星術をベースとして伝えてきたことを、福音をベースに伝えていく時がきているね。日本のスピリチャリティ(そしてそれは世界においても重要な位置を占める)において、福音の大切さを説くべき、次のフェーズに入る時がきているね。
ラテン系の人が明るいのって、そもそもカソリックの影響下にあって、プロテスタントと異なり「技による救い」もある程度許容してきたことで、実際に神の救いに預かっている実感を伴ってきたからこそ、細かいことは気にしない=既に神によって自分も周りの人たちも赦されているという実感があるからなのではないかと思う。
日本人によくただの女好きと誤解されやすい、イタリアのアモーレの感覚も、むろん主の愛(アガペー)、宗教的感情が前提にある。イタリア人のアモーレは、(神が私たちを愛するように)あなたのことも愛しているの意味なのだ。神の無償の愛は分け隔てがないわけで、その意味で、宗教的感情の延長線上に、恋愛感情をおくのが、アモーレの感覚。むろんギリシャ・ローマの長い歴史と文化の元で、美しいものを愛する(そしてそれは普遍的な宗教心とも深い関係にある)という感覚もそれを手伝っている。また、特にギリシャ彫刻に見られるように神によって造形された人間の肉体も、聖なるものであり、それを愛で愛することは、積極的なアモーレの表現の中に含まれている。
宗教改革の中で技による救いを完全に放棄したプロテスタントにおいては、救いとは人知が介在するところではなく神の一方的な裁きよって行われるものであり、つまりは予定説に基づくものなので、自分が救われているかどうかは生前に知る由がない。ゆえにせめてもの思いで、質素にストイックに生きることでその安心感を得ようとする精神から、ベースとなる精神性の違いが生まれてきたのだと思う。
言語的な差異も非常に重要で、そもそも宗教改革はドイツから始まったのだが、英語をはじめとしたゲルマン語族が、バチカンの権威から離れて、プロテスタント化していったのも、ようは一般庶民にとって、言葉の壁が存在することによって、ラテン語ベースのカソリックよりも、ルターやカルバンのようなゲルマン語族のプロテスタンティズムのほうが、宗教的な教育を受け取りやすかったということ。
また、同時に、同じラテン語族の中で、フランスの国民性だけが突出して、他のラテン語の国に比べて(細かいことを気にしないラテン気質から一線を引いて、人間の理性を重んじ、議論好きで、合理的な精神や、個人主義を重んじるという意味において)異質な理由はフランス革命期に共和制によって、宗教的権威を否定し、市民の手による革命によって王室を打倒し、合理的精神を追い求めてきたという歴史にもあるといえる。
その意味で、日本における普遍的な宗教教育という側面において、英語だけでなく、ラテン語族の中でもイタリア語を学ぶ大きな理由は、バチカンで日常的に話されているというだけでなく、そもそも言語的なエネルギー(国民性を含む集合意識、日本的に行くと言霊)として、ゲルマン語族にはない宗教的な意識、技による救いをある程度許容し、楽観的な人生観を持つ意識ベースを学ぶという意味において、コミュニケーションや、言語取得ということ以上の、深い意味合いがあるのではないかと思う。つまりは、イタリア語を学ぶことで、ゲルマン語とはまた違う形で、主の救いや福音のすばらしさを実感できる側面があるのではないだろうか?と思う。むろんそれは言語だけでなく、文化全般においてもいえるだろうが。しかし文化の根底に言語がある以上、決して軽視できないと思う。
このあたりの「技による救い」「信仰による救い」の問題は、アメリカ型資本主義社会と社会における幸福を分析するうえでも非常に重要な要素になるね。カソリック圏内における資本主義の在り方と幸福感は、またアメリカや、戦後それに追従した日本とはまた異なる位相にあるからね。結局資本主義社会を規定したものは、技に救いにあったのではないだろうかと。日本やアメリカがニューエイジ型の信仰形態、自己啓発的な形での新宗教の普及の形態をとっていくのも、ここに深い関係があるかと。これは、またあらためて分析する。
イタリア語はもちろんのこと、キリスト教神学をしっかりと根底から学んでいくことも、今後の研究の上では非常に重要な要素になってくるね。
つまりどんな国にあっても人間である以上、救いの確信(仏教だと悟り)を得たいということなんだよな。その確信の仕方が、技による救いなわけで、これは文化的な背景によって、宗教儀礼に求めたり、商業的な活動に求めたり、日々の労働に求めたり、学問に求めたり、ボランティアに求めたり、芸術活動に求めたり、千差万別。つまり生かされているだけでなく、技による救いを通じて、生きる意味、確信を得たいということ。
また、おそらくバチカンのおひざ元であるイタリアの離婚率は低いんだろうなと思って調べてみたら、やはりそうだった。先進国で離婚率は高くなっているとはいえ、やはり宗教観によってだいぶ事情は異なるんだね。アモーレの国だからといって、決して軽い結婚観なわけではない。むしろ結婚については非常にストリクト。おそらくマンマが強いのも、日本のかかあ天下じゃないけれど、宗教的な愛に基づく関係性であって、決して恋愛感情だけで成り立っている関係性ではないことが、社会的にもしっかりと考え方のベースにあるからこそなんだろうね。むろん家と家との契約だった日本人の結婚観と異なり、あくまで主の愛に基づく結婚観なので、夫婦間の愛の表現は日本人のそれよりももっとずっと豊かなことには間違いがないが。
https://moomii.jp/couple-family/italian-marriage.html

霊的な身体

霊的な身体についてしっかりと知るには、やはり聖書において他にない。ほかの学びだと、意識の振動数を高めてアストラル界に入ったとたんに、ルシファーの影響が出てくるし、その意味で、イエスと聖霊、神の三位一体において、学ぶことでしか難しい側面がある。技による救いや、修行をベースとした仏教でもそうだが、出家していない普通の人間がなんのディレクションもなく学ぶことは危険でしかない。日本に蔓延しているお手軽スピリチャルでは、ルシファーの影響を防ぎようがないし、あまりに霊的に無防備で危険すぎる。

所得格差と消費格差について

この記事は、2015年と庶民の食べ物牛丼すらプレミアムになっていた時代で、高級品志向が究極まで強くなっていた真っ最中の分析だが、非常に興味深い。格差社会は、所得格差よりも消費格差の方が大きいということ。所得よりも消費の方が大きいということは、つまり簡単に言うと家計は立派な赤字なわけで、それを補填するための個人向けの借り入れがバブル崩壊以降の金融政策で90年代以降緩和されたことによって、個人の借金が増えていることで成り立っているだけなのでは。90年代以降、家計の平均貯蓄が減っており、なおかつ単身世帯の中央値が0円になっているのも、確実にバブル崩壊以降の個人向けの金融政策の緩和が関係している。そもそも生活を借り入れに頼っていて、貯蓄がない(当然時代背景的に所得も上がらない)ので、そもそもそうした経済的な理由から、結婚できないというのが重要な理由なのでは。離婚率がここ数年減ってきたのも、そもそも結婚する人が減ったという(結婚しなければ離婚もできないという当たり前のこと)が関係しているのも興味深い。つまり今後数十年というスパンにおいてはすでにフランスではそうなっているように、結婚離れと、より流動的なパートナーシップ契約や、家族の新しい形などが模索されていくことになるのだと思う。
そもそもこうした背景にあるものは、高級志向に基づくマーケティングで、それは実体経済に基づかないただのバブルだったのでは? ずっとこうした実体経済に基づかないいびつな状態を続けていくわけにはいかないから、IoTの発達によって、モノがシェアされる時代に入ったということだと思う。いまのキャッシュレスブームも社会システムとしての背景にはこうした理由があるし(貨幣そのものが20パーオフなどになることによって、高級品を中心とした価格弾力性が高い商品に対する消費性向は上がるので、一時的には売り上げは上がっていく)、お金のかつての仕組みの終焉はこの辺りに始まっていくのだと思う。小泉政権時代に意識の中にインストールされた格差社会という概念によって成り立っていた高級志向のマーケティングが、IoTの普及によって、成り立たなくなっているということでもある。
そしてこうした時代に思春期や少年少女期を送る世代は、そもそも物的なものに承認欲求を求めていくこと自体が、感性として、ダサい、古い、ナンセンス、オヤジ、オバサン的なものと感じるようになっていくのだろう。このあたりを時代感覚として、ちゃんと時代の変化に合わせていかないと、ただの時代錯誤の痛い大人になってしまうだろう。これがまさに壮年期におけるジェネラティビティの獲得というテーマになっていくのだね。
流行に流されず、なおかつ意識的に選択的に時代に適応するためには、自分の美意識(単純にファッション的な意味での美意識ではなく、それも無論含まれるが、カント的な意味でのより抽象度の高い判断力としての美意識)に基づくスタイルを持つ必要があるということだね。
実体経済に基づかない高級志向路線の結末って、バブル時代の負の遺産として有名なチバリーヒルズ(ワンハンドレットヒルズ)みたいになっていくんだろうね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%92%E3%83%AB%E3%82%BA

第三密度から第四密度へのシフト

夢の中(第四密度以降の世界)ではっきりと、新しい世界(第四密度以降にシフトする世界)においては、3時間以降の過去については、C1(第三密度)の世界でそうだったように「因果律が崩壊」し、確定的なものではなく、確率的なものになる、というメッセージがきた。つまり3時間以降の未来の世界が決まっていないように、3時間前の過去の世界も実は今の自分に決定によって変わっていくんだよというメッセージ。かつてもそうだったが、そもそもそれを記憶(認識)するのが難しかっただけで、3時間前の多次元的な世界を記憶できるようになった今、だんだんこうした確定的な因果律ではなく確率論的に立ち現れていく時間のない世界が見えてくるようになるらしい。「因果律の崩壊」というメッセージは非常にクリアにきた。
クリストファーノーラン監督のインターステラのように死者の魂は次元を超えて自由に時空を移行し、また生前深い関係性を持っていた場所や人などの強い量子的もつれのあるC1においてはポルターガイストのように影響を与え、C1のタイムラインを分岐させ、新しく時間軸を作ることも可能になる。この世があの世化していく(死者が蘇る世界)というのもまさにこのことを示すのだろう。つまり意識の振動数が上がり、ある一定の閾値を超えたことで(第四密度以降にシフトしたことで)、過去に向かうベクトルにおいても確定的な因果律が崩壊し、未来に向かうベクトルがそうであったように確率的な世界が立ち現れていくという世界がやってきている。
ようは第三密度の物質期においては寝て起きたら、昨日までの世界の正しい記憶は忘れていたってこと。寝て起きて、昨日までの世界を都合よく、今日と連続性のある世界と思い込んで見ていただけで、そもそもそれが第四密度以降の世界においては、3時間以降の過去は確率的なもので、またさらに昨日というものはすでに連続性すらなくなっていたというのが真実で、それが続いていたと認識していたのはただの錯覚であったということ。

福音なきままのスピリチャルについて

そもそも今スピリチャルと呼ばれているものは、もとはオカルトと呼ばれていたものそのものであって、福音なきままスピリチャルを信じることは、福音なきままオカルトを信じるということであって、これは悪魔崇拝につながるのは、当たり前の構造であるといえる。

ミッションとは

自己啓発でよく使われるミッションという言葉は、そもそもルーツはキリスト教で、イエス・キリストが弟子たちに与えた、遠方へ行き 福音を広く人々に伝えるという使命を示す。その意味においても、福音の伝道に勝るミッションは存在しえないわけで、そもそも福音を伝えるためには人格の陶冶が非常に大事で、それを伝えられるだけの人間性を日々しっかりと磨いていかないといけない。結果的に人生のミッションがこうした人間としてどうあるべきかという自己言及的なミッションという形に落ち着いてくるということになる。ミッションは本来的に、ただの目標達成という短絡的な意味ではない。
【ミッションとは】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3?fbclid=IwAR2bTVwnPqgsyGwZ4HEIR2iAn1ALPq22yPfprvqBgYtWsFQM5ymNYnxgroE
【福音伝教とは】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E5%AE%A3%E6%95%99?fbclid=IwAR19M5WCmJZwXg4PSO4kpOpGCSPnvwuKMS_e9oDGfjq7z0b6ydQvD-7cXEc

暗黙知から形式知へ

今新しく占星術を学ぶための教材の準備をしているのだが、そもそもセラピストやヒーラーになるためには、基本的に前段階として、仏教、神道、キリスト教の基本的な構造を学んでもらったほうがいいね。もう少し突っ込んだ段階だと、ユダヤ教やイスラム教はもちろんのこと、マニ教や、ミトラ教、ゾロアスター教、バビロニア神学などの知識もあったほうがいい。マニ教やミトラ教の知識がないと、そもそも現代占星術のベースとなった神智学運動の理解も難しい。また、そもそも日本の仏教が上座部仏教と異なり、マニ教やミトラ教などの影響を受けた大乗仏教であるという自己認識もできない。般若心境が「お釈迦様の教え」という誤った認識を持つ人が多いのもこのため。そもそも般若心境は、釈迦の教えを乗り越えるべく(大乗仏教化)するために、作られた教典。つまり、正確に言えば、般若心境は、釈迦の教えを否定するために生まれたもの。宗教学のベースがないと、実践においても変な方向に進んでしまうし、常識として持っているべき教養は、暗黙知から形式知に変えた方がいいね。上手くいく人の当たり前を知らないと、いつまで経っても同じ失敗をグルグルしてしまう。
そもそも人類史的に癒しを提供してきたのは神であり、宗教であるから、まずはその屋台骨をしっかりと知ることは何においても大事ということは、ちゃんと暗黙知から形式知に変えないとね。
冷静に考えて、そもそも義務教育の中で、宗教学は高校の倫理で人物名等を少し触れるだけで(そもそも日本において高校は義務教育じゃないし、ゆえに倫理は選択科目なんだけど)、ちゃんと扱ったと言えるほどの内容は扱っていないからね。確かに文系の大学で、神学とまではいかなくとも、比較宗教学などを学ばないと、そもそもの世界宗教の教義の内容については知らないのがある意味当然なのかもね。
こういう教養的なベースがないからこそ、それが神から来るものなのか、魔からくるものなのか、見極めがつかないし、サタンは非常に巧妙なので、多くの場合サタンの影響を受けた変な変性意識を取り入れて、エゴが肥大化しちゃうのね。
そうなる人と、そうならない人の違いを数多く見ていくなかで、普遍的な宗教教育を幼児期や学童期に受けていたかが、本当に重要な違いになっていることが分かってきた。オカルトがスピリチュアルに変わって、敷居はだいぶ低くなったがゆえに、この類の霊的な諸問題は今後も非常に重要な課題になっていくと思う。
その意味でも、基本的な宗教教育を受けずに(つまりキリスト教におけるプロテスタンティズムの派生としてニューソートやニューエイジにつながっていくクリスチャンサイエンスが生まれているというベースを知らずに)ニューエイジやニューソート系に触れるのは結構危ない側面があるということ。福音を知らずに、ニューソートやニューエイジを信奉するのは、福音なきキリスト教で、もはやそれはサタンの教えでしかない。福音を知る機会が少ない、日本においては非常にこうした問題は、想像以上に深刻なものとして捉えた方がいいともいえる。
つまりシンプルにいうと、福音なき、引き寄せの法則は、サタンの教えになりうるということだね。当たり前すぎて、意識すらしていなかったけど、そもそも引き寄せの法則よりも、福音を知って信仰することの方が途方もなく大事。そうでないと非常に危険。
どこか気持ち悪いニューエイジャーというのは、このあたりが抜けているんだと思う。
神は、愛の神であると同時に、義の神でもあるからね。なんでもかんでも許容しているわけではない。我々が悔い改めるように、義に基づいて、愛を持って、試みをお与えになる。試みを通じて、自らの罪を意識し、イエスの御名を通じて悔い改めることで、赦される。それが主がお与えになった、人類への無償の愛ということ。そして、その神の無償の愛のように、自分に罪をなすものを赦し、またイエスの御名において祈ることで、自分の罪をも赦されていることを感じながら、互いに愛しあいましょうということ。おおもとの福音からくるところの「無償の愛」が意味するところが何かをわかってなければ、人を無償に愛することも無論できない。
何でもかんでもいいわけじゃないし、ましてイエスの福音を知らずになぜ無償の愛を受けられるといえるのだろう?(仏教は悟りと慈悲の教えであり、いわゆる無償の愛という教えではない。仏教においては愛別離苦というように愛は離れるべき対象である。何より法華経の教え以外は、すべからく技による救いなわけで、決して信仰による救いではない。)
その辺りの問題は日本のニューエイジ文化の重要な主の試みになっているように思う。

いよいよ

今朝起きて感じたけど、エネルギー的にいよいよ始まる感じがすごいね。春のスタートダッシュがいよいよだ。

時空の上昇感

時空の上昇感がすごいな。これがまさに譲位に伴う意識の変化なんだね。
メタ認知が広がった時って、パラダイムが変わるから、一時的に今までに自分がやってきたことをすべて否定したくなるけれど、そもそも、そういうもんでもないんだよね。これまでの道のりがなければ、そもそもメタ認知もできないわけで、最初からわかっていたらベタにしかすぎないからね。その意味で、ストーリー性ってとても大事。神が試みを与えるのも、まさにこのメタ認知=神を知るためだといえる。
全ては振り子のようにいったり来たりしながら、極から極へと移行する。大事なことは、その触れる振り子ではなく、その上の支点へと目を移すること。そうすれば、自然に目の前の問題は解決していく。事象、現れそのものには真実は存在しないし、大事なことはその振り子の働きを作り出している真の力点にしっかりと目を向けて、自分の内側を内観することだ。

非線形のシフト

4月1日の新元号が決定した後も、さらに着々と振動数が上がってきているね。物的な世界の非線形のシフトもすごい広範囲に広がってきている。着々とデヴァチャンに向かって進んでいるね。
まぁ、正確には、世界がシフトしているのではなく、自分自身がシフトしているんだな。逆に言えば、すでに準備されている世界が見え始めているともいえる。
そういう実体験からも、確実にマカバ(霊的な身体)は存在する。イエスの御名において、肉体が、魂の乗り物であるという時代はいよいよ終わりを遂げる。祝福されている新時代の到来。

継続は力なり

2001年~6年の、自己責任論が台頭していた小泉政権下の時代背景で、身に着けた考え方なんだけれど、「組織に属さずに、自分らしい人生を歩むこと」というテーマをずっと実直に取り組んできた。その中で、結果的に自分自身がうまく行った要因を振り返ると、「抽象度を高めること(教育・自己投資)」と、「継続性(地道な努力の積み重ね)」の二つにあったと思う。
特に、この継続性というのは非常に重要で、本当に骨が折れることなんだけれど、あの当時の過酷な時代背景だったからこそ、どんなことがあってもあきらめずに努力し続けることの大切さを学べたと思う。継続性というのは、本当に、地味なんだけれど、結果的に一番大事で、なおかつ今の時代同時に軽視もされやすい領域だと思う。
よく例えらえる話だけれど、湖の白鳥のように、その時代で派手な成功を収めているようにみえる人も、水面下では一生懸命足を漕いでいる。経済学の理論においても同じことがいえるが、「労働の負の効用」を積み重ねていった結果、ようやく初めて「正当な対価」を得ることができるというのは、人間心理としては当然なことだと思う。
しかし、ミスチルの「終わりなき旅」のように、高い壁を目指して限界に挑戦し、もっと大きな自分を探すというアイデンティティを形成してきた青年期を過ぎ、今や立派な壮年期。壮年期のテーマであるジェネラティビティの獲得を考えると、時代背景も変わった今、この「継続は力なり」ということを、次の世代に伝えるということは、非常に難しいもの。ノウハウや、技術は、抽象度を高めた知恵によって、シンプルに伝えられるけれど、実際にそれを具体的な領域へと落とし込む段階においては、いかに努力を積み重ねてきたかが本当に大きな差を生む。ひとっとびで大きな成果を生み出すためには、結果的にそれまでにどれだけの人生の積み重ねをしてきているかがとても大事に思う。その意味で、一日一生。一日一日を大切に生きていくということは、どんな時代においても、軽視してはいけないと思う。

スピリチャルがオカルトと呼ばれていた時代は、

そういえば、よく考えたら、スピリチャルがオカルトと呼ばれていた時代は、そもそもよりアストラル界のルシファー色が強かったね。忘れていた。そもそも精神世界のアカデミック化が進むにつれて、少しずつこの10数年の間でも、ルシファー色って払しょくされてきたんだった。あまりにも当たり前すぎて、当たり前のことに気づいていなかった。

ゲーテのファウスト

とてもシンプルに言うと、ヒーリングをするにしても、キリスト教、神道、仏教、神智学(グノーシス主義)、占星術、心理学、量子力学、宇宙物理学、それぞれを学究しながら、詳しくなるべきだということだね。その上で、自力(行いによる救い)と他力(信仰による救い)の両方をしっかりとおさえていくこと。まさにゲーテのファウスト博士の物語そのものだね。
最終的に、技による救いを究めたファウスト博士も、結果的には、技による救いによって救われることはなかった。しかし、一方でメフィストフェレスも予期しなかった形で、信仰による救いによって、ファウスト博士は救済される。どれだけ知を究めても、最後は、神の掌の上にいるにすぎない。ある意味、これはソクラテスの「無知の知」ともつながるものがあるといえる。人は考える葦なのだ。人間は、自然の中でもっとも弱い一本の葦みたいなものだが、それは考えるという能力をもった存在だということ。しかし究極的には、考えることによって救われるわけではなく、救いは主の一方的な恵みによってもたらされるということ。

精神修養

「技による救い」のためには、やはりルシファー(サタン)の影響をプロテクトするために精神修養はやはり非常に重要。日本に福音なきまま受容されてしまっているプロテスタンティズから派生したニューソート、ニューエイジはその意味でも、非常に危険なものになるということだね。ルシファーからすると入りたい放題。幸い日本は仏教、神道といった技による救いによって、精神修養の大切さを説いているからその点では防げるが、一歩間違えると非常に危険な受容の仕方になりうる。ニューエイジやニューソートを受け入れるには、まずは何よりも最初にイエスの復活について学び、正しい信仰を持たないといけないね。

「信仰による救い」と「技による救い」について

プロテスタンティズムは、もともと教会の政治的な腐敗からの宗教改革として登場したが、その結果、人々が救われる条件をあぶりだしていった結果、聖書主義と信仰主義という2つの軸を得た。そしてその聖書主義に基づき、「技による救い」の要素を徹底的に排したことで、カソリックの教会権力を完全に否定することができた。確かに「技による救い」から、ルシファーは入り込むので、これは当時とても正しい選択だったともいえる。一方で、確かに「信仰のみによる救い」も、実際にとても正しいのだが、人は弱い生き物で、実際に救われているかどうかをその都度都度で知りたい。カソリックの中では祭儀を通じて「信仰による救い」とともにバランスよく存在した「技による救い」が存在していたが、プロテスタントではそうはいかない。そこで、マックスウェーバーの資本主義とプロテスタティズムの倫理で論じられているように、この要素を埋めるべく、世の中に価値を与え、そして、質素に暮らしたことで生まれる経済的な余剰(資本)こそが、結果的に、「自らの救い」を確信する要素とすることにした。これが(特にアメリカ型)資本主義の根底となった。
時代を経て、資本主義が台頭し、より物質的な富の価値が偏重されるようになっていく過程の中で、特に「技による救い」を教義上否定しているプロテスタントの人々は、救いへの確信を得る方法を、ヴェーダ神学や、インド哲学、仏教、ヨガなどの他宗教における「技による救い」を取り入れ始める人たちが増えていった。これが、ニューエイジ運動の背景にあったもの。
救われていることを実感したい、しかしそれを自分たちの先祖たちが教義の中では「技による救い」を否定してしまっているために、他の宗教体系で埋めなければいけなくなったというわけだ。
つまり、実際はイエスへの信仰のみにおいて救われるということは非常に正しいし、それこそが福音の本質なのだが、プロテスタントといえど、人間は弱い生き物であり、その確信をどこかで得たい、ゆえに、「技による救い」を通じて、自分が救われていることを知りたいという欲求があったということ。
その意味でも、決して「技による救い」を全否定すべきものではなく、バランスと中庸は非常に重要なものであるともいえる。それは、プロテスタンティズムから発生したクリスチャンサイエンスや、ニューソートがすべからく物質的な富を得ることに焦点を当てていること(現世利益)の傾向があることにも表れているし、ニューエイジ自体が、「技による救い」を主とする東洋の叡智を積極的に取り入れようとしてきたことでもよくわかる。ゆえに、人は「神の一方的な恵み」「信仰のみによって救われる」ことは真実であるが、同時に人は弱い生き物であるがゆえに「技による救い」によってその都度安心感を得たいということでもある。仏教の世界において、自己を滅却し、あらゆる欲を捨てていく仏道が存在するのも、こうした「技による救い」を求める人々にとって、できるかぎりのことをしたいという善い思いに基づいたものであるということも、軽視してはいけない要素だともいえる。
僕自身が、「技による救い」を長年ずっと扱っている理由も、同様の思いに基づいている。むろん、「技による救い」にはその構造上、必ず限界が来るということも確かで、最近になって「信仰による救い」を強調し始めたのもこうした背景がある。
そもそも、非キリスト教圏である日本人ゆえに、ある意味ここはすごくアバウトでも大丈夫でなんとなくきたのだが、あらためて整理してみるとこうした世界宗教のマッピングは現に我々の意識の中でしっかりと存在している。
バランスはとても大事だ。と同時に、神智学という西洋の「信仰による救い」と、東洋の「技による救い」の統合という、シンクレティズムに基づく学問、グノーシス的な学問探求は、やはり重要なものであり続けるといえる。何も、グノーシス的な傾向を持つ宗教観が勃興するのは、今の時代に限らず、ヘレニズムの時代や、ルネッサンス、近代ヨーロッパでも起こっていたことだ。常にそれは、人類史的な技術の発達によって、様々な異文化の人々が交流した時代の中でのできごとなのである。
むろん、グノーシス主義的な精神世界の探求は、「技による救い」の要素が入る以上、常にルシファー(サタン)の要素があることは間違いがないことであるが、それは精神的修養を通じて、人格を鍛え上げていくしか方法はないであろう。こうしたテーマは、すでにゲーテのファウストの中でもしっかりと扱われている。そして、それは仏教や修験道がそうであるように、非常に厳しい道だともいえる。こうしたことに自覚的になることが、ニューエイジャーとしても非常に重要なことだといえるのではないだろうか。

ありのままの自分を受け入れること

いわゆる「ありのままの自分を受け入れる」とは、キリスト教で言うと、自分を罪人として受け入れるということ。アダムによる原罪(メンタル界から物質界への下降、その結果、人間は死を体験するようになった)を背負っている以上、罪人でない人はいない。そして、一人によってその後のすべての人が罪人になったということは、また同様に一人によって、すべての人の罪は赦されるということでもある。神の子として生まれ、我々の罪のためために死なれた、イエスの御名によって自分の罪を認め、そして、祈るということは、自分が罪人であることを正面から受け止め、悔い改め、そして、それがイエスの御業によって、神との和解ができるということである。
「ありのままの自分を受け入れる」という言葉一つには、これだけ深い意味とプロセスがある。決して、セルフィッシュに生きるという意味ではないし、また赦す主体は神であって、一方的な恵みによるものであって、決して自分自身ではないということも大事。自分が自分を許すのではなく、主によって赦されていることを実感することで、結果的に自分を許せるようになるということ。