月別アーカイブ: 2019年4月

なるほど!

とてもシンプルに理解できた。イエスキリストは、三位一体であられ、そもそも父なる天地創造の主であるから、マンデラエフェクトという形で大陸を動かしたり、山を作ったり、時間や空間の制限を終わらせることもできるわけだね。それが預言書の中における雲に乗ってやってくるということだったのか。そりゃ、あらゆる全ての人がそれを見ることが可能になるね。なるほど!
聖書の世界の中においては、イエス様は、宣教開始から、十字架の磔までの3年半の間に、実に様々な奇跡(技による救い)をなされた。それゆえに、この方はイザヤ書の中で預言されていたメシアだと信じられるようになった。そして、今回の再臨においては、天地創造の主であることをお示しになるために、マンデラエフェクトという形で、奇跡を起こされている。つまり、イエス様という人格を持った三位一体の創造主としての姿を、お示しになっているということ。アーメン。

主の一方的な恵み

主が多くを赦してくださったということは、主に計り知れない借りがあるということだが、しかしそれすらも主は、一方的な恵みによって与えてくださっているということ。そうした計り知れない借りすら大きな慈悲によって帳消しにしてくだっている。まさにそれこそが主の無償の愛ということだね。ゆえに主が私たちを赦してくださったように、人を赦すことはとても大事。主イエスキリストの御名においてお祈りいたします。アーメン。

モーセの十戒

確かに十戒を守れば、サタンは入らないね。もちろん人間は自由意思を持つ以上、絶対に罪を犯すので、不可能なことではあるが、非常に深いものがある。またイエスの十字架によって、罪があがわなれることで、十戒の規律がなくなるわけではなく、むしろ人はより進んで悔い改め、深くこの十戒を守ることの大切さを学べる。
1.主が唯一の神であること
2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
3.神の名をみだりに唱えてはならないこと
4.安息日を守ること
5.父母を敬うこと
6.殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
7.姦淫をしてはいけないこと
8.盗んではいけないこと
9.隣人について偽証してはいけないこと
10.隣人の財産をむさぼってはいけないこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%81%AE%E5%8D%81%E6%88%92

主に多くを赦された人は、多く主を、そして人を愛せる。

主に多くを赦された人は、多く主を、そして人を愛せる。
「あるパリサイ人から食事に招待されたので、イエスはその家に入りました。一同が食卓に着いていると、 町の女が一人、高価な香油の入った美しいつぼを持ってやって来ました。この女は不道徳な生活をしていました。 女は部屋に入るなり、イエスのうしろにひざまずき、さめざめと泣きました。あまり泣いたので、イエスの足が涙でぬれるほどでした。女はていねいに自分の髪でイエスの足の涙をぬぐい、心を込めて足に口づけしてから、その上に香油を注ぎかけました。 イエスを招待したパリサイ人はこの出来事を見て、「これで、やつが預言者でないことがはっきりした。もしほんとうに神から遣わされた者なら、この女の正体がわかるはずだから」とひそかに思いました。 ところが、イエスはすべてを見通しておられました。「シモンよ。あなたに言っておきたいことがあります。」「はい、先生。何でしょう。」 「ある男が二人の人に金を貸しました。一人は五百デナリ(一デナリは一日の賃金)、もう一人は五十デナリ借りました。 ところが二人とも、どうしても借金を返せません。金を貸した男はたいへん思いやりのある人だったので、二人の借金を帳消しにしてやりました。この二人のうちどちらの人がよけいに貸し主に感謝し、彼を愛したでしょうか。」 「たくさん借りていたほうでしょう。」シモンの答えに、イエスも、「そのとおりです」とうなずかれました。 それから、ひざまずいている女のほうをふり向き、シモンに言われました。「ほら、この女を見なさい。わたしがこの家に来た時、あなたは足を洗う水さえ出してくれませんでした。ところがこの女は、涙でわたしの足を洗い、髪でふいてくれました。 あなたはあいさつの口づけをしてくれませんでしたが、この女はわたしが入って来た時から、何度も足に口づけしてくれました。 あなたはわたしの頭にオリーブ油を注いでくれましたか。この女は、わたしの足にこんなに高価な香油を注いでくれたのです。 この女の多くの罪が赦されたからです。そして、わたしを多く愛してくれたからです。少ししか赦されていない者は、少ししか愛さないのです。」 そして女に言われました。「あなたの罪は赦されています。」 その場に同席していた人たちは、心の中でつぶやき始めました。「罪を赦すなんて、いったい自分をだれだと思っているのだろう。」 しかし、イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心してお帰りなさい」と言われました。」
‭‭ルカの福音書‬ ‭7:36-50‬ ‭JCB‬‬

心に染みる言葉

あらためて、しみじみと深く心に染みる主の言葉。
「それからイエスは、弟子たちのほうをふり向き、話し始められました。「あなたがた貧しい人は幸福です。神の国はあなたがたのものだからです。 いま空腹な人は幸福です。やがて十分満足するようになるからです。泣いている人は幸福です。もうすぐ笑うようになるからです。 わたしの弟子だというので、憎まれたり、追い出されたり、悪口を言われたりするなら、なんと幸いなことでしょう。 そんなことになったら、心から喜びなさい。躍り上がって喜びなさい。やがて天国で、目をみはるばかりの報いがいただけるからです。そして、同じような扱いを受けた、昔の預言者たちの仲間入りができるのです。 これとは反対に、金持ちたちを待ち受けているのは悲しみだけです。彼らの幸福はこの地上限りのものだからです。 肥え太り、今は栄えていても、やがて飢え渇く日が来れば、彼らの笑いは一瞬にして悲しみに変わるでしょう。 ほめそやされる者はあわれです。偽預言者はいつの時代でも、そのような扱いを受けたからです。 いいですか、よく聞きなさい。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者によくしてあげなさい。 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者に神の祝福を祈り求めなさい。 もしだれかが頬をなぐったら、もう一方の頬もなぐらせなさい。また、もしだれかが上着を取ろうとしたら、下着もつけてやりなさい。 持ち物は何でも、ほしがる人にあげなさい。盗難にあっても、取り返そうと気をもんではいけません。 また、人からしてほしいと思うことを、そのとおり人にもしてあげなさい。 自分を愛してくれる人だけを愛したところで、ほめられたことでも何でもありません。神を知らない人でさえ、それぐらいのことはします。 よくしてくれる人にだけよくしたところで、何の意味があるのでしょう。罪人でさえ、それぐらいのことはします。 返してもらえる人にだけお金を貸したところで、善行と言えるでしょうか。全額戻るとわかっていれば、どんな悪党でも仲間にお金を貸してやります。 自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことなど当てにせずに貸してあげなさい。そうすれば、天からすばらしい報いがあり、あなたがたは神の子どもになれるのです。神は、恩知らずの者や極悪人にも、あわれみ深い方だからです。 あなたがたも、天の父のように、あわれみ深い者になりなさい。 人のあら捜しをしたり、悪口を言ったりしてはいけません。自分もそうされないためです。人には広い心で接しなさい。そうすれば、彼らも同じようにしてくれるでしょう。 与えなさい。そうすれば与えられます。彼らは、量りのますに、押し込んだり、揺すり入れたりしてたっぷり量り、あふれるばかりにして返してくれます。自分が量るそのはかりで、自分も量り返されるのです。」」
‭‭ルカの福音書‬ ‭6:20-38‬ ‭JCB‬‬

信仰のみによる救い

グノーシス主義(密教)を突き詰めていくと、最終的には霊的身体論に落ち着き、ブッディ意識の目覚めとともに時空間の制限を超える体験をすることで、釈迦が体験した悟りの状態になる。物理次元のあらゆる常識が崩れ、パラレルワールドを自由に行き来できることに気づいたとき、その時全ての因果を離れることが体感でわかる。個人という意味においては確かにそこにおいて救われるのだが、あくまでそれは個人的な救済でしかなく、結局のところ、それを他の人に伝えようと試みたり、まして集団救済論という枠組みになると、「技による救い」だとどうやったって不可能で、イエスが神の御子として整えてくださった「信仰のみによる救い」という部分に頼るほかはない。こうした経験を、おそらく浄土真宗の中で親鸞もしたんだと思う。
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」
エフェソの信徒への手紙 2:8-10 新共同訳

ニューエイジ文化における恋愛観の構造的な矛盾点

日本におけるニューエイジ文化独特の恋愛観構造の矛盾点がよくわかった。
ソウルメイト、女性の社会的、精神的、経済的自立を前提とした対等なパートナーシップ、両性具有的なジェンダーフリー論、内なる女性性、内なる男性性といった概念、個人の中での両極性の統合といったニューエイジ特有の考え方って、そもそも、アメリカのウーマンリブやフェミニズム、女神運動、ペイガニズムなど、聖書的な家父長制に基づく男尊女卑的な価値観を否定するために生まれた概念で、伝統的なキリスト教カソリックのサクラメント(秘跡)としての結婚を否定するためのものだから、ニューエイジ的価値観を進めれば進めるほど、そもそも家父長制に基づいて形成されていたカソリック的な愛であるロマンティックラブイデオロギー(一生に一度の相手と恋に落ちて、結婚して、愛する子供を育てることが素晴らしいという概念)から、むしろ遠くなるんだわ。つまり(福音が内在していない)ニューエイジと、ロマンティックラブイデオロギーは両立しえないということだね。
そもそもこのロマンティックラブイデオロギー自体が、伝統的なキリスト教観からきていて、人の愛(エロス)ではなく、神の愛(アガペー)が前提となっているから、そもそも創世記に基づく聖書的な世界観がないと普通は成り立たない。日本にロマンティックラブイデオロギーが入ってきたのは戦後映画などでアメリカ文化が入って以降の話。戦前は、日本の伝統的な家同士の結婚という価値観であって、お見合い結婚が中心で、恋愛結婚はあまり一般的ではなかった。
ニューエイジ的恋愛観を信奉するということは、神は外側ではなく、自分の中にあるということだから、聖書的な神に約束するという要素ではなくなるわけで、結婚という枠組みに永続性がなくなるのは当然のこと。
しかもビートルズというアイコンを中心として、サブカルチャーとして70年代以降に入ってきた、日本のニューエイジ は、前提として聖書的な世界観やイエスの福音の概念がないので、そもそも最初からサクラメントとしての結婚という概念や、ロマンティックラブイデオロギーのベースとなるべきアガペー的価値観を担保する福音の要素もないわけで、ますます状況は悪くなる。
イタリア人の離婚率が非常に低いのは、そもそも伝統的なキリスト教のサクラメントとしての結婚観があるからなんだな。
そもそもロマンティックラブイデオロギーとニューエイジ的恋愛観はその成り立ちからして矛盾していることを、そもそも日本にいると、ニューエイジ の他の要素同様、非常に気付きにくい構造になっているんだね。

キリスト教グノーシス派が異端であるわけ

また、キリスト教の教派が、正統か異端かを分けるポイントのひとつに、神学的構造が、「三位一体説」をとるかどうかということがあるが、グノーシス主義の大きな問題点は、霊なる善の神と、肉なる悪の神という二元論的な世界観をとることによって、そもそもこの世の神の三位一体の人としての位格が、集団救済論として十分に機能しえない部分にある。
キリスト教グノーシス主義は、3世紀前後に非常に栄えていたマニ教やミトラ神学、拝火教(ゾロアスター教)の影響から生まれたものだが、そもそもマニ教やミトラ教、拝火教の教義において、この世界が悪の神(アーリマン)によって作られた以上、肉体を持った人としての位格を持った理想的な神は、理論上存在しえないのだ。
つまりその構造上、「技による救い」を否定して、「信仰のみによる救い」という集団救済型の救済論をとる限り、絶対にサタンが入ってしまうことを防ぐことができないのだ。
ゆえに、グノーシス主義は、仏教がそうであるように、出家したお坊さんのみ救われ、個人救済および技による救いによるものでしか、ありえないのだ。ちなみに、日本の仏教は、本来の釈迦が唱えた上座部仏教と異なり、マニ教や、ミトラ神学、拝火教(ゾロアスター教)、景教(キリスト教ネストリウス派)の影響を大いに受けているので(弥勒信仰や菩薩道などがそうである)、上座部仏教の個人救済論だけでなく、集団救済論も教義の中に入ってくる。日本人が今後、イエスを救い主として受け入れる可能性が非常に高いのも、日本の仏教がそもそも大乗仏教であり、それは集団救済論に基づいているので、純粋な個人救済論であるところの上座部仏教と違って、比較的キリスト教の集団救済論との相性がいいということがあげられる。特に、浄土真宗は、例えば悪人正機は、原罪と悔い改めのことであり、極楽浄土は、天国のことであり、他力本願は、信仰のみによる救いという概念と同じで、イエスなきキリスト教といわれることも多いくらい教義には類似性がある。
日ユ同祖論をとれば、日本神道のルーツが、ユダヤの旧約の民だともいえるし、また同時に日本は仏教国でありながらも、上座部的のような個人救済ではなく、大乗的な集団救済であるという部分は、新約聖書の世界背景に非常に近いものといえる。これは、日本人の霊性や今後の目覚めというものを考えるうえで非常に重要なものになると思う。つまり、三位一体の人としての位格であるところの、神の子イエスの、人としての在り方を4福音書に学ぶということは、日本人の霊性の在り方を大いに変容させる要素があるといえる。
そのような意味においても、イエスの福音のみならず、再臨についても預言されているたイザヤ書の中で、日本および日本人のことを指していると思わしき箇所は非常に重要なものであると思う。
「それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び/海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。」(イザヤ書24章15節)

ニューエイジカルチャー

70年代のニューエイジカルチャーが、安易に薬物に頼り、本来の東洋の精神性からほど遠い退廃した文化を形成したのも、キリスト教世界に「技による救い」という文脈がなかったからこその、脆弱な構造があったからだ。むろんこうした人としての弱さから、サタンが入ってくる。確かにこうした状況を観れば、キリスト教社会から見れば、ニューエイジがいかにもサタン的なものに見えてしまうのは当然だと思う。しかし本来の東洋の思想や人間哲学からは程遠いことは、東洋の名誉のためにも強調しておきたい。

神と子と聖霊の、三位一体がなぜ重要なのか。

神と子と聖霊の、三位一体がなぜ重要なのか。
日本語において、仏というと、必ずその背景には仏教の開祖である「釈迦」という一つの確固としたパーソナリティが存在する。しかし、一般的に日本語で、「神」と表現すると、一神教的な意味においては、こうした単一の象徴的なパーソナリティが存在しないゆえに、「人としてどうあるべきか」というモデルが存在しなくなる。
ゆえに日本語において、「私は神のようでありたい(もしくは私は神だ)」というと非常に横柄な意味合いが含まれる。むろん一神教においては神は創造主、人間は被造物なので、「私が神」であるはずがなく、それは楽園にて蛇がアダムとイブを誘惑したやり方(善悪の知識の木の実を食べれば、あなたも神のようになれる)と同じだ。
その一方で、日本語で「私は仏です」というと、お釈迦様という明確なひとりの人格を通じて、こうした横柄な意味合いは大いに否定され、人間としても理想的な人物像であるべきだという意識が働くようになっている。逆に言うと、キリスト教圏の人に、仏教における仏の概念を説明しても、釈迦の人格を知らない限り(しかもそれは聖書のように単一的な書物で残っていない)、正しく理解することは難しいと思う。せいぜい目の前にいるモンク(お坊さん)や、チベット密教のダライラマなどの有名な僧を見て、理解するしかない。(むろん、「信仰のみによる救い」や「偶像崇拝の否定」という聖書的な世界観をフィルターにしているので、厳しい仏道修行のような「技による救い」という要素は理解できないため、あくまで表面的な理解にとどまらざるを得ない。カルチャーで言うところのヨガや瞑想から入るか、せいぜい本格的な接点としては、現代思想の領域で鈴木大拙の禅(ZEN)の思想を理解しようとするくらいしか、理解しようがないと思う。)
キリスト教にて「イエスキリストの御名において」と祈る理由は、まさにここにあるといえる。つまり、仏教においては、仏という言葉の中にすでに「仏教の創始者、仏陀の御名において」という意味合いが既に含まれているのだ。
父なる神という位格と、神の子(人)という位格、そしてさらに聖霊という位格が、一つの神格の中に含まれることで、はじめて一神教の神に関する正しい認識を持つことができる。
その意味で、日本の場合は、釈迦がどんな人だったかは、お坊さんの説法や、日本のお寺の文化などで、なんとなく釈迦がどんな人かを知る機会は多い一方で、そもそも神の御子イエスがどんな人だったのかということを知る機会が、非常に少ないといえる。
そこにさらに輪をかけて、日本神道の多神教の神の概念が入ってくるためにより話が複雑になる。なぜなら日本神話における神は、あらくれものの須佐之男命のように、必ずしもギリシア人やルカの福音書が考えるイエスキリストのような、人間として完全で理想的な人格を備えた神ではないからだ。ゆえにその意味では、キリスト教のサタンも、一つの神として受け入れてしまうという土壌がある。これは、そもそもキリスト教の神と、日本の神とを、同じ言葉で翻訳してしまっていることに大きな間違いがある。
こうした問題点を持ったまま、技による救いや、繁栄の教学を強調しながらも、イエスキリストによって示される神の三位一体性について触れない、クリスチャンサイエンスから発展したニューソート、およびニューエイジが入ってくることで、日本の霊性というのは、サタン的なものに大いに汚染されてしまっている状況だといえる。
こうしたことを構造的に防ぐためにも、大事なことはイエスキリストについて正しく知ることだ。幸い(釈迦がどんな人だったかという文章が散逸してしまっている仏教と異なり)キリスト教における理想的な人格としてのイエスキリストは、新約聖書の中の4つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)を読むことで、どんな教派においても正しく統一的に理解できる。
なお、聖書を現代的に読みやすくしたリビングバイブルを底本とした、それぞれの福音書の動画がYouTubeにあるので、それを観ると非常に分かりやすい。
【マタイの福音書】https://www.youtube.com/watch?v=s44IDy3emkI (ユダヤ人の王としてのイエス像)
【マルコの福音書】https://www.youtube.com/watch?v=YsAkNmbxc4U (ローマ人に向けて描かれた、しもべとしてのイエス像)
【ルカの福音書】https://www.youtube.com/watch?v=joqnK7A9dQM (ギリシア人に向けて描かれた、理想的な人間としてのイエス像)
【ヨハネの福音書】https://www.youtube.com/watch?v=fhAfypcxQ8Q (全人類に向けて描かれた、神の御子としてのイエス像)
聖書のアプリのおすすめ(新共同訳だけでなく、リビングバイブルも選べ、なおかつ音声で読み上げもしてくれる)
https://www.bible.com/ja/app
まずはイエス様がどんな人であられたかということを知るということが、日本人が一神教の神(特に三位一体としての神)を正しく理解するうえで、非常に重要な要素になっているといえる。
ちなみに日本神道においては、神道における最高神であるところの天照大御神という神格における、人としての位格(人ととしてのあるべき理想像)は、天皇陛下によって象徴されてきた。日本の「和」の心とは、すなわち天皇陛下において象徴されている。ゆえに私たち日本人は、天皇陛下によって、人としての生き方を学び、自らを律していくことができる。また皇室が万世一系のものであるということも、世界に類を見ないことである。本当に誇りに思うべきだと思う。
また、日ユ同祖論をベースに取ると、まさに天皇陛下こそが、実は古代ユダヤの失われた氏族につらなるものであり、実は私たち日本人のルーツに旧約聖書の世界があり、またその上で、ユダヤの民において新約が与えられたということは、すべからく日本人がイエスを救い主として受け入れることは、大きな必然性を持ちうるということも、非常に重要な要素であるといえる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%83%A6%E5%90%8C%E7%A5%96%E8%AB%96

次の10年。

日本には福音の信仰が開花するための種子がしっかりと埋まっている、ということを日々確信する。ニューエイジやスピリチャルブームがここまで広がって、いい部分(物質主義からの脱却)も悪い部分(サタンの介入)も色々形になっている今、神の計画の一部として、福音や聖書理解を通じた日本の霊性の開花は、これから確実にやってくると思う。これは10年前に、当時はまだ全然知られてもいなかったセラピー的文化が、日本において現在のように非常に一般的なものになると確信した感覚と全く同じだといえる。ニューエイジの次は、福音と聖書だと思う。日本において、主の御名があがめられる時が近づいてきた。
2010年に書いた記事「ヒーラーがいない世界」
http://www.ondorinohane.com/blog/2010/05/post_603.php
まさに、今はヒーラー(セラピスト)の存在が当たり前になったからこそ、次第に、ヒーラーがいない世界(イエス様を救い主として受け入れる時代)に突入しつつある。
この時は、「自分を愛する」ということを軸として伝えていたし、それでも十分意義があったのだが、今やそうしたメッセージはとても一般的なものになった。と同時に、実はサタンはこの「自分を愛する」というコンテクストに入ってきやすい。一歩間違えたら「自分を愛する」ということは、ただのナルシシズムになってしまうのだ。つまり自分を愛するという意味は、本質的には「主が自分を愛するように自分を愛し、そして人を愛する」という意味であって、これは主の祈りの中で言うところの「私たちの罪をお赦しください。私も人を赦します。」「ありのままの自分は罪人であるということを受け入れる、そしてその原罪はイエスの復活の御業を信じることによってあがなわれる」という意味において有効な概念だ。
その意味でも、そもそもこうしたニューソートや自己啓発、人間性心理学によってもたらされた思想背景のさらに奥にある、キリスト教的な価値観の「主を愛する」という方向へとさらに進んでいく必要がある時代に入ってきたと思う。
「それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び/海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。」(イザヤ書24章15節)